Il mio ultimo giorno a Napoli (ナポリの最終日)

8月22日に東京からナポリに帰任し、この間アパートの契約等で慌ただしくベネチア往復を行いつつ、いよいよ9月2日に最終的にナポリを離れ、次の赴任先ベネチアへ移動する。

ナポリの最終日にセッティングされたのが、「ナポリの下町」スペイン地区(Quartieri Spagnoli)の巡検とヒアリング。スペイン地区は、ナポリのショッピングストリート、via Toledoに隣接した斜面に広がる古い住宅地で、高齢化と低所得層の集住が進み、治安は必ずしも良くない。典型的なインナーシティ問題を見て取ることができる。ちなみに「地球の歩き方」でも「治安が悪いので、大通り(via Toledo)から見上げるだけに」とアドバイスされている。

f:id:kenjihas:20150905235010j:plain

 

(赤い線が「目抜き通りのvia Toledo、黄色い区画がおおよその「スペイン地区」。地区の定義を廻っては諸説がある。)

 スペイン地区は、名前の通り、16世紀末から17世紀にかけて、この地を支配したスペイン政府が、王宮に近いこの地域を兵営として開発したことに始まる。その後、兵士のみならず多数のスペイン人移民の受け皿となり、20世紀以降は3~4階建てであった兵営が不法に上乗せ(増築)され、今日に至っている。斜面を上がるほど(上の図では左へ行くほど)勾配が急になるため、急勾配を利用した半地下室(フロアの一方方向のみが地上に面しており、窓の無い部屋が生じる)が増え、こうした劣悪な居住環境の住戸に低所得者や移民が集住することで、現在のスペイン地区の特性が形成された。

それでも、近年はvia Toledoに近い地域で商業開発や公共事業も進み、3本目のVico lungo teatro nuovo(長い新劇場小路)までは観光客が足を運ぶ様になった。

f:id:kenjihas:20150906000802j:plain f:id:kenjihas:20150906000826j:plain

(via Toledoから眺めたスペイン地区の東側(左)。勾配は緩く、観光開発が進んでいる。一方、西側(右)は、傾斜が急になり、低所得層と移民の比率が高まる)

f:id:kenjihas:20150906001119j:plain

(ご案内下さったナポリ東洋大学のF先生(社会地理学)と、ナポリ・フェデリコⅡ世大学のL先生(建築学・都市学)。L先生はスペイン地区に居住し、ボランティア活動を主催するほか、地域と行政とを結びつける役割を果たしている)

スペイン地区は、いわゆる「犯罪多発地域」とは一線を画する。むしろ、典型的なナポリの下町に近い。人々のネットワークは強固で、高齢者の死亡通知には、本名のほかに、地域で’そう呼ばれている’通称が書かれ、子供が生まれるとナポリ伝統の’新生児告知’が建物の前に掲げられる。ただ、ショッピングバッグや高価なカメラ、時計など、不用意な持ち物を携えての「巡検」は避けた方が良いだろう。

f:id:kenjihas:20150906002324j:plain f:id:kenjihas:20150906001435j:plain

(新生児の誕生を告げるナポリ伝統の飾り物(左)と、地域商店街)

f:id:kenjihas:20150906003053j:plain f:id:kenjihas:20150906003130j:plain

(移民も増加しつつある。トルコ系移民を顧客にしたケバブ屋(左)、タミル語で書かれた掲示物(右)。スペイン地区はとりわけスリランカ系移民が多い)

 

巡検を終え、17:25ナポリ発のItalo(第三セクターの運行会社が走らせる特急。フランスのTGVと同じ車両を、フェラーリ・カラーに塗装し、イタリア国鉄が運営するFrecciarossa(赤い矢)と同じスピードで走る)でベネチアへ向かう。ベネチアまで5時間5分。

f:id:kenjihas:20150906003353j:plain f:id:kenjihas:20150906003718j:plain

(途中、250km/hで高速走行中の車窓から、山上都市オルヴィエートがちらりと見えた)

f:id:kenjihas:20150906003907j:plain

(水の都には、深夜着)

La anguilla (鰻)

日本での3週間は、ほとんどベネチアでの講義に使う資料収集とノート作成で潰れる。正式な時間割が送られてきて、担当講義の時間が想定より多い(大チョンボ)ことが判明し、忙しい忙しい・・。

イタリアへのお土産を買いに日本橋三越へ出かけると、本館と新館との連絡通路から鰻の老舗が見える。鰻そのものはイタリアにもあるけれど、さすがに蒲焼きは食べられない。反射的にこの日の昼食が決まる。

f:id:kenjihas:20150902164538j:plain

 

イタリアに無い、といえばコンビニ。イタリア人にコンビニの話をすると例外なく驚かれる(呆れられる?)。一般的には、「24時間営業のミニスーパー」という業態が「夜間の治安の良さ」と結びついて語られるが、地理学の専門家とコンビニの話をしていると、「(1日3回弁当を運ぶ)配送コスト」や「ATMが配置可能な情報基盤の強固さ」に話が及ぶ。そう、コンビニの本質はここらへんなのである。講義でもコンビニを扱うため、最近の業態の写真を集めて回る。

f:id:kenjihas:20150902165031j:plain

(最近増えているドラッグストアとのコンボ)

f:id:kenjihas:20150902165128j:plain

(多摩川に近く、自転車で多摩川べりを走る際に給水ポイントにしていたコンビニは潰れていた)

 

覚悟はしていたが、やはり5ヶ月ほったらかしにしておくと車のバッテリーは上がっていて、JAFのお世話になった(そのままディーラーに持込み、バッテリー交換で数万円・・・)。しかし自転車は、タイヤに空気を入れるだけで快調に走る。コンビニの取材には大変重宝しました。

f:id:kenjihas:20150902165255j:plain

(多摩川下流、羽田方面から川崎方面を望む)

f:id:kenjihas:20150902165604j:plain

(「自転車乗ってる暇があるなら俺と遊べ!」。エアコンが効いた部屋に閉じ込められた猫は暇で仕方ない・・)

 

3週間はあっという間にすぎて、現在、再びナポリへ帰任。

 

I Fiumi (河)

ナポリを引き上げ、一時帰国の途に就く。航空会社は乗り慣れたルフトハンザのミュンヘン経由。

f:id:kenjihas:20150815234653j:plain

ナポリ空港はボーディングブリッジの数が少ない。ほとんどの便が、ターミナルから徒歩またはバスで乗客を移動させ、昔懐かしいタラップで機上へ上がる。機種はA321-100)

f:id:kenjihas:20150815234924j:plain

(上昇中の機内から見たナポリ市北西部。下の赤丸が有名な考古学博物館で、旧市街の北西隅に位置する。青丸がお世話になったアパート。中心市街地まで徒歩20分であった)

f:id:kenjihas:20150815235149j:plain

カンパーニャ州北部あたりで目にした大規模灌漑施設。左下の水路から水を導水し、円形?にループする水路で水を耕地に行き渡らせる仕組みと考えられる。周辺の乾燥地との土地利用の差は歴然たるものがあるが、当然ながらコストは農産物価格に反映される)

f:id:kenjihas:20150815235455j:plain f:id:kenjihas:20150815235509j:plain

(左がイタリア最大の河川であるポー川、右がオーストリアを東西に流れるイン川。おなじアルプスの融雪水を集めて東流する河川でも、雰囲気が違うのはパダノ・ベネタ平野を悠々と流れる前者と、アルプスの狭い河谷を急ぐ後者の違いだろう。飛行機に乗っていると河川は格好のランドマークとなる)

f:id:kenjihas:20150816000013j:plain

 (イン川、ドイツアルプスを越えると、飛行機は急に高度を下げてミュンヘン空港を目指す。降下中の機窓から見えるバイエルンの農業地域は肥沃で利水にも恵まれている。局地的な灌漑地域を除いて粗放的な農地が広がる南イタリアとは、土地生産性が大きく異なることは一目瞭然である。様々な特例措置や農業補助金は準備されているにせよ、自然条件が異なる南北ヨーロッパが、単一通貨、関税撤廃という条件下で競争することの難しさが実感できる光景であった)

 

イタリアもドイツもシェンゲン条約国であるため、ナポリミュンヘンはパスポートコントロールが無い。このため出国審査をミュンヘン空港で行うが、ここで一悶着。出国審査の担当官曰く「いつヨーロッパへ入りましたか?」「3月31日です」「ヨーロッパにはビザ無しでは90日しか滞在出来ないことはご存じですか?」「私はイタリアの滞在ビザと滞在許可書を持っています」「この6月のナポリの印は何ですか?」「それはクロアチアから戻った時のものです」「おや、7月にもロンドンへ行ってますね?」「イギリスにも10日ほど滞在しました」「貴方はイタリアで何を勉強しているのですか?」「地理学です」「頻繁に、シェンゲン条約国外に出る理由は何でしょうか?」「たまたまです」。

要するに、担当官が「ヨーロッパ」と言ったので、こちらも「3月末」と答えたのだが、彼女が知りたかったのは「いつ、最後にシェンゲン条約地域に入ったか」なのだ。条約国のビザと滞在許可書がない限り、域外居住者はこの日から90日以内にシェンゲン地域から退去する義務が生じる。この問題は、イタリアのビザと滞在許可書(見せてないけど)があれば問題ないのだが、次いで彼女が不審に思ったのは、シェンゲン入国から90日になる直前の6月末に、(シェンゲン域外の)クロアチアに短期旅行していることだった。スロベニアクロアチアへの短期旅行は、ビザを持たない旅行者がシェンゲン域内での滞在期間をリセットするための常套手段だからだろう。最初から「シェンゲン域内に最後に入ったのはいつですか?」と聞いてくれれば、7月のロンドンを答え、問題なく通して貰えたのかも知れない。結局、ミュンヘンの出国審査で5分近く会話の練習をさせていただく。

ミュンヘン-東京は、いつも通り「通路側」の座席を確保し、ひたすら寝て帰る。東京はひたすら蒸し暑い。温度よりも湿度にノックアウトされました。

f:id:kenjihas:20150816002355j:plain

(「そこは、私の寝床なのでこざいます・・・」。冷たい玄関の三和土は猫の寝床と化していた)

 

 

 

 

 

Vulcano Buono (「素敵な火山」:ショッピングセンターの名前)

ナポリ出発の前々日、ナポリ郊外(北東約20km)にある話題のショッピングセンターBulcano Buonoに連れて行っていただく。多分にベスビオを意識したと思われる不思議な外観だが、中はドーナツ状の建物にテナントが入るショッピングセンター(SC)。中央の空洞部分は、多目的広場に使われ、ちょうどコンサート用のステージが設えられていた。

Vulcano Buono - Home || Personalizza

SCの周囲を土盛りし、そこに植栽を施すという突拍子も無いデザインもさることながら、夏季小雨のナポリで植栽を維持するため、膨大なスプリンクラーが稼働していた。円形という建物形状と相俟って、㎡あたりの家賃はお安くはなかろう。実際、シチリアカターニア近郊のSCと同様、テナントの多くは「似たりよったり」のチェーン店やH&MZARA、ALCOTTに代表されるFast Fashionである。

しかし、フランスの大型スーパー「Auchan(オーシャン)」を核店舗として160店に及ぶテナントを擁していること、ナポリサレルノ、カゼルタ3市の中間に位置していること、高速道路から直接入店可能なアプローチを有していること、などから、前述のデザインの奇抜さと相俟って、ナポリ郊外の人気スポットとなっている。

f:id:kenjihas:20150810225247j:plain

(高速道路のアプローチから眺めたVulcano Buonoの外観。この中にSCが「埋まって」いるとは想像できない)

f:id:kenjihas:20150810225400j:plain f:id:kenjihas:20150810225425j:plain

(ドーナツ型の建物は2層に分かれ、6色のシンボルカラーで「現在地」が分かるように工夫されている)

f:id:kenjihas:20150810225546j:plain

(店舗の内部。場所を表すシンボルカラーは、隣のブロックに移動するにつれてグラデュエーションしていく。写真は「緑」ゾーンから「黄色」ゾーンを望む)

f:id:kenjihas:20150810225815j:plain f:id:kenjihas:20150810225835j:plain

(このSCは、当初、行政が公社方式でトラックターミナルを建設するはずだったが、開業後のニーズに不安があり、行政がさまざまな「特例措置」を設けてSCに転用した。最大の株主は物流会社だそうである。公社方式による郊外開発が頓挫し、その後始末にSCを誘致するという流れは日本でもよく見かける。行政自らが中心市街地にとどめを刺した、と皮肉をささやかれる構図である)

 

下は出発前日のアパート。何とか片付きました。夜、マリア先生宅で送別会をしていただく。とはいえ、3週間後には再びナポリ経由でベネチアに入るので、お別れという実感は無い。マリア先生ご夫妻も、ご主人(建築の先生)の学会の関係で、秋にベネチアにおいでになるそうで、専らベネチアの四方山話に花が咲く。

f:id:kenjihas:20150810230437j:plain

f:id:kenjihas:20150810230507j:plain

(10ヶ月間、お世話になりました)

La costa di Amarfi ② (アマルフィ海岸 ②)

11世紀半ばに海洋国家としての隆盛が失われた後、アマルフィの経済を支えた代表的な産業は製紙業であった。9世紀にシリアなど東地中海からもたらされた(おそらく古代中国をルーツとする)製紙技術と、北アフリカから運ばれた原料植物、都市アマルフィが広がる狭い扇状地を形成したCanneto川の清流が結びついて、13世紀には製紙業の集積が形成された。(おそらく、と断りつきだったが)この時期に、羊皮紙に代わる高質な便箋を供給できたのは、イタリアでもアマルフィマルケ州のファブリアーノ(Fabriano)に限られたと年代記には記されている。

しかし、最盛期の18~19世紀に16カ所を数えた製紙工場も、その後、Canneto川の水量低下、(鉄道が通らず、道路も不便なアマルフィゆえに)消費地との連絡の悪さ、そして1954年の大水害によって衰退し、現在では3カ所が残るのみである。かつての工場の1つは、製紙博物館(Museo della carta)になっており、水力(水車)を動力とする18世紀当時の製紙工場の中を、毎時間出発するガイドツアーで見学することができる。

Museo della Carta - Carta a mano di Amalfi

(このHPの英語版のHistoryは面白い。上記の紹介文の原典にもなっている。ただし、「中国の古い文献に示された製紙の技術」と紹介されている3枚の絵は、どう見ても江戸期の日本の草紙絵だろう・・・)

f:id:kenjihas:20150805232516j:plain

(Museo della carta(紙の博物館)の外観。アマルフィの中心市街地を1kmほど山側に遡っていく。清流を得るために扇状地の扇頂近くを好む立地特性は、埼玉の小川町などと同様、製紙業の特徴である。それゆえ、鉄砲水など水害の被害にも遭いやすい。写真左側のアーチは水路、中央が事務所、右下が工場入口。工場が半地下となっているのは、水路の水で水車を回す必要上、落差を稼ぐためだそうである)

f:id:kenjihas:20150805232946j:plain f:id:kenjihas:20150805233045j:plain

(水源から、高度を維持し、工場よりも高い位置に引かれてきた水路と、これを動力に変える工場内の水車)

f:id:kenjihas:20150805233256j:plain f:id:kenjihas:20150805233407j:plain

(工場内は、ガイドツアーがあり、18世紀当時の紙の製法を一通り実演して見せてくれる)

 

アマルフィの市街地から、約350m登ると、絶景の保養地として知られるラヴェッロがある。往路はバス(40分)、復路は徒歩(70分)。古代ローマ時代、有力者による柑橘類のプランテーションとして拓かれ、12世紀頃から有力者の別荘が建ち始め、こうした別荘に招かれた芸術家たちのサロンが花開いた。

しかし、何といってもラヴェッロを有名にしたのは、17世紀~19世紀にかけて、イギリスの上流階級の子弟の間に流行した「グランド・ツアー(Grand Tour)」だろう。上流階級の子弟が、見聞を広める目的で世界中を廻ったグランツアーの目的地の中でも、イギリスからの距離が近く、古代ギリシャからルネッサンスに至る遺跡や遺物に事欠かないイタリアは人気の地であった。こうしたツアーには、当然「ガイドブック」が存在する。そうしたガイドブックに、チンブローネ荘(Villa Cimbrone)からの眺望を絶賛するイギリス人グリーンソープの文章が紹介され、イギリスの上流階級の若者が押しかける「観光地」へと発展していった。手段の目的化(移動から旅行へ)と観光メディア(ガイドブック)の成立、資源化する眺望、ガイドブックの記述を追体験する行動形態(あるいはガイドブックに導かれた「聖地」の誕生)など、近代ツーリズムの成立を考える上で興味深い街だと思う。ちなみに、もう1つの代表的なヴィラであるルーフォロ荘(Villa Rufolo)には、作曲家のワーグナーが滞在し、楽劇「パルジファル」第2幕の一部をここで作曲している。

f:id:kenjihas:20150805233606j:plain f:id:kenjihas:20150806000253j:plain

(ラヴェッロのカテドラル前広場。350mの標高と、海から絶え間なく吹く風が大変気持ちよく、PCを広げて原稿書きをしていました)

f:id:kenjihas:20150806000501j:plain

f:id:kenjihas:20150806000441j:plain

(グリーンソープが整備したチンブローネ荘のテラスと、テラスからの眺望。この背後には、ローマ風の四阿やら、ルネサンス風の彫刻やらが点在しているが、どうも趣味が合わない。テラスから眺望を眺めた後は、駆け足で回って退散)

f:id:kenjihas:20150806000832j:plain f:id:kenjihas:20150806000900j:plain

(左は、ワーグナーが「霊感を得てパルジファル第2幕の「魔法の花園の音楽」を書いたと伝えられるルーフォロ荘の中庭。パルジファルの「神秘的な」音楽とは趣の異なる明るい庭だったが、芸術家の霊感とはそのようなものなのだろう。ルーフォロ荘の裏からアマルフィに下る遊歩道が出ている。70分間、階段を下りっぱなして足が笑う)

 

ソレントから入り、ポジターノ、アマルフィ、ラヴェッロと回った旅の最後は、終着のサレルノに近い陶器の街ヴィエトリ(Vietri sul Mare)。古代ローマ時代に陶器の工房が集積し、いわゆる「ソレント陶器」の源流の1つとなった。かつて、マリア先生宅で、アマルフィ地域の昔の生活を素朴なタッチで描いたエスプレッソカップのセットを拝見し、これに近いものが欲しいのでマリア先生に電話をする。マリア先生曰く、まだハンドメイドの工場も残ってはいるものの、デザインが軒並み新しく(コンテンポラリーなものに)なっているとのこと。職人が減って、代わりに芸術家が増えているのだそうだ。それでも、「ハンドメイド、アマルフィの生活誌をデザインとしたもの」という条件で、老舗のPinto社を紹介してもらい、無事買い物も終了。

Ceramica Pinto s.r.l.

f:id:kenjihas:20150806004443j:plain f:id:kenjihas:20150806004512j:plain

(陶器の町ヴィエトリ。しかし昔ながらの製法、デザインの店は、この15年間で極端に減った、というのがマリア先生の弁)

f:id:kenjihas:20150806004708j:plain

(ヴィエトリ周辺の海岸線の土地利用。一番上に道路、その下に柑橘類の段々畑、その下に家屋の順で垂直に配置されている。平地がほとんど無く、厳しい土地であったことがうかがえる)

 

ヴィエトリ~サレルノ間はバスで15分。サレルノナポリ間は快速で45分。夜の8時過ぎにナポリ帰着。

La costa di Amarfi ① (アマルフィ海岸 ①)

 この10ヶ月間、ナポリを拠点に、ヨーロッパ9カ国、100を越える都市(西の門からから東の門まで20分というプーリアあたりの可愛らしい小都市を含め)を巡ったが、意外にナポリ近郊は足を運んでいない場所が残っている。いつでも行けるという安心感ゆえに、結局機会を逸したという事だろう。

それでも2日間時間が取れるので、あれこれ考えた末、ソレント半島の南岸、いわゆるアマルフィ海岸の小都市をいくつか回ることにした。振り出しはソレント半島北岸の港町ソレントから。ナポリ民謡でおなじみのこの町は、ナポリ湾を挟んでナポリと正対しており、天気が良ければ(ナポリとは)裏返しのベスビオ山を眺めることができる。

f:id:kenjihas:20150803234717j:plain

(ソレント港。正面のSNAV社の大型船の手前に見える小さな船が、ナポリ港との間を約30分で結んでおり、これを利用。鉄道は本数が多く、船より安く、何よりもアマルフィ海岸(半島南岸)に行くバスが駅前から出るのが魅力だが、ポンペイ、エルコラーノを沿線に持つため、観光シーズンに入ると半端なく混むのが疵。しかし、ソレント港から鉄道駅前のバス停まで7~80mの標高差を上がらなければならない)

 

ソレント半島は、古い火山性土壌からなる半島であり、発達した海食崖を開く谷の出口(小さな扇状地)の上に港町が一定間隔で並ぶ様は、どこか西伊豆に似ている。ソレントから山を越えて南海岸に出た先がポジターノ。ローマ時代の開拓地に始まり、海洋国家アマルフィの衰退後は長らく半農半漁の小さな村であったが、近年は国際的なリゾート地、別荘地として(ひょっとするとアマルフィ以上の?)人気を誇っている。1953年に(まだ知る人ぞ知る)ポジターノを訪れた作家のスタインベックは、「天国的に美しい。次の時代にかならず名声を獲得する」と書いたそうだが、慧眼だったと言うべきだろう。狭い谷を農耕地として利用するため、家屋が断崖に張り付く集落構成は、家屋のカラフルな色彩とともに独特な景観を形成している。

f:id:kenjihas:20150804000409j:plain

(テラコッタの屋根を持つピンクやバラ色の家屋が崖にへばりつく、ポジターノ特有の景観)

f:id:kenjihas:20150804000825j:plain

(ポジターノの独特な集落立地は、谷を階段状の農地として利用する、この地域の半農半漁村に共通する。ただし、観光化が進み産業構造が転換したポジターノでは、テニスコートなど他用途への利用や、休耕状態の畑も散見される)

f:id:kenjihas:20150804001154j:plain f:id:kenjihas:20150804001228j:plain

(現在のポジターノは、ブランドショップが並ぶリゾートであり、有名な観光ガイド「Lonely Planet」には、Positano is the coast's most photogenic and expensive townと、やや皮肉っぽく紹介されている。ちなみに右のビーチは、昼食をとったホテルのプライベートビーチで、チェアの利用料は1日8ユーロとのこと)

 

ポジターノからアマルフィ間は再び船便。繁忙期で沿岸の高速船ネットワークは大賑わいであるが、「アマルフィは海から近づくに限る」という陣内秀信先生(イタリア建築史)の言葉に従うことにする。

f:id:kenjihas:20150804001843j:plain

(ソレント半島南岸は、付け根のサレルノからアマルフィを経てポジターノまで(一部の船はカプリ、ナポリまで)沿岸の高速船ネットワークが発達している。平日だが、観光シーズンなので船客はかくの如し)

f:id:kenjihas:20150804002300j:plain

(船から望見するポジターノ。この絶景は陸路からでは拝めない)

ポジターノからアマルフィまでは、高速船で小一時間。かつて、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサと並ぶ、中世の四大海運国家という歴史がにわかには信じられないくらい、海に開けた街の正面は小さく、狭い。

f:id:kenjihas:20150804002605j:plain

アマルフィ港から眺めたアマルフィの開口部。正面の塔がカテドラル(聖アンドレア聖堂))

f:id:kenjihas:20150804002842j:plain f:id:kenjihas:20150804003258j:plain

(カテドラルに含まれる「天国の回廊」は1266年に建設された。海運国家アマルフィ公国の最盛期からは100年以上下るが、イスラム色の濃いデザインで統一されており、環地中海圏交易の要衝であったアマルフィを象徴する空間といえるだろう)

アマルフィは、狭い谷間に2万人の人口を抱え、垂直方向に発達した都市である。また、商業(公的)空間としてのメインストリートと、住居(私的)空間とを分けるため、商店が軒を連ねるメインストリートと平行に、あるいは直角に数多くの路地が走り、住居の入口をこの路地に設けることで、静穏とプライバシーを確保している。先の陣内先生によれば、こうした都市計画そのものが、アラブ・イスラム圏の都市計画と酷似しているとのこと(陣内秀信『都市を読む*イタリア』法政大学出版局)。

f:id:kenjihas:20150804004821j:plain

(土産物店と飲食店が軒を連ねるアマルフィのメインストリート。上の絵は、町の守護聖人・聖アンドレアが1544年6月27日に起こしたとされる「奇跡」を描いたもの。いわく、アマルフィを侵略するため、アマルフィ沖に押し寄せたバルバロッサの艦隊が、聖アンドレアが起こした「神風」で一隻残らず海没したそうな。伊太利亜版蒙古襲来である)

f:id:kenjihas:20150804005215j:plain f:id:kenjihas:20150804005228j:plain

(メインストリートと直角に(左)、あるいは平行に走る、「私的な」空間に繋がる路地)

f:id:kenjihas:20150804005603j:plain

(路地は、人口増加に対応して垂直的に発展してきた都市の歴史を物語るように、複雑な分岐を繰り返しながら、上へ上へと上昇する。一昔前は、観光客が入りづらい場所だったかも知れないが、最近はプチホテルやB&Bがこうした住宅空間に入り込んでおり、善し悪しはともかく、マラケシュやフェズのスークに比べて、比較的気兼ねなく歩くことができる)

f:id:kenjihas:20150804005741j:plain

(運が良いと、見晴らしの良い高台に上がることができます)

この日はアマルフィで一泊。在外研究の先達である同僚のK先生の故事に倣い、海岸沿いのホテルのシーサイド・ビューに泊まる。

f:id:kenjihas:20150804010016j:plain

(部屋からの眺め。正面の防波堤がアマルフィ港だが、アマルフィは開口部が狭いので、絶景という訳にはいかないのが残念)

Il pacco ordinario internazionale via superficie (優先陸送便国際小包)

ナポリの店終いが迫る。せっせと小包をつくり、郵便局に持ち込む毎日が続く。

f:id:kenjihas:20150801234203j:plain

結局、ベネチアに7箱、日本に4箱。日本では考えられないが、街中の小さな郵便局では、国際小包(pacco ordinalio internazionale)は扱って貰えない(少なくとも、ナポリの拙宅の近くでは断られた)。このため、5kg×2箱、10kg×1箱、15kg×1箱を抱え、中心市街地の中央郵便局まで3度に分けてえっちらおっちら運ぶ。

日本同様、イタリアの郵便局が扱う国際小包にはいくつかの価格体系があるが、どうせ急がない本、書類、衣類なので、一番安いvia superficie扱いで送る。Supersupficieの直訳は「表面あるいは面積」であるが、もちろん輸送費用は重量で決まる。このsuperficieは大変な優れもので、観光ガイドや各種ホームページでは「優先陸送便」(あるいは船便)と説明されることが多いが、実のところは、両国内を陸送便(船便)扱いし、両国間を航空貨物で運ぶ便(日本郵便のSAL便)であろう。最初に送った2箱など、わずか10日後には東京に届いている。ちなみにSALは、Surface Air Liftedの頭文字であるからsuperficieとも通じる。もっとも、クリスマスなど繁忙期の所要期間はこの限りではない。個人的経験では、クリスマス前後のSAL便は1ヶ月近くかかってイタリアへ到着している。

イタリアから日本へのsuperficieのお値段は、5kgまで38ユーロ、10kgまで55ユーロ、15kgまで78ユーロで、日本からイタリアへ出すSAL便よりも安い。箱は、近所のスーパーマーケットの廃材置場で交渉し、分けていただく。ただ、スーパーの商品は基本的に軽量なので段ボールが薄く、引っ越しに使いやすい「体積のある箱」は強度が弱くなるのが難点。頑丈な箱は、街のゴミ箱で拾うのが一番確実である。

f:id:kenjihas:20150801235549j:plain

ナポリのゴミ箱周辺。ナポリのゴミ問題は、一時期の危機的な状況は脱しているものの、相変わらず夜になるとゴミ箱は溢れかえり、夏には異臭も漂う。事業ゴミと家庭ゴミもごっちゃだが、夕食の帰りなどブティック等の閉店時間にぶつかると、洋服を送るのにちょうど良い強度と大きさの箱が手に入る)

いわゆるナポリのゴミ問題は「処理側」と「投棄側」のおのおのに問題があると言われる。処理側の問題は、ゴミ処理事業を仕切っていたマフィアが、行政の締め付け(マフィアが「野焼き」を行って環境を著しく損ねるため、公的なゴミ処理場を建設しようとした)に対して、マフィアの息がかかる事業者が処理をボイコットした問題を指す。世論の後押しもあって、現在ではほぼ公的な処理場への転換が進んでいるらしいが、処理場の処理能力が投棄量に追いついていない。と書くと、ゴミが溢れる一方ではないかと誤解されるが、長いスパン(1ヶ月とか)ではかろうじて処理できるものの、短期的なピーク(月曜日とか、祝祭日の翌日とか)の投棄量に対応出来ない、というのが正しい所だろう。

問題は投棄側で、「分別」がなかなか進まない、街には新しい分別ゴミ箱も増え、行政も分別を呼びかけているが、(イタリア全体がそうなのか、ナポリだけなのかはさておき)分別は非常にいい加減で、上記の通り家庭ゴミと事業ゴミの分化も進んでいない。

f:id:kenjihas:20150802003138j:plain f:id:kenjihas:20150802003529j:plain

(街中に設置が進む分別ゴミ箱。左から紙リサイクル(白)、缶・ペットボトル等(黄)、ビン(緑)。それぞれの箱には、捨てて良いカテゴリ-、いけないカテゴリーが詳細に記されている)

f:id:kenjihas:20150802003327j:plain

(だが、生ごみ用のゴミ箱の中身はこんな感じ)

 

さて、10ヶ月お世話になったサン・カルロ劇場ともお別れ。最後の演目は、サマー・フェスティバルと銘打って上演されたプッチーニの「ラ・ボエーム」。昨年10月の「愛の妙薬」に始まって、「サロメ(11月)」「イル・トロヴァトーレ(12月)」「アンドレア・シェニエ(今年1月)」「トリスタンとイゾルデ(2月)」「トゥーランドット(3月)」「ルイーザ・ミラー(4月)」「チェネレントラ(6月)」「トスカ(7月)」と、ヒアリングでシチリアへ出かけていた5月を除き、ほぼ皆勤賞。いつも天井桟敷(50ユーロ)で聴いていたが、サマー・フェスティバルは天井桟敷が28ユーロに値下げされた上、公演当日は平土間(1階)の入りが悪いとかで、天井桟敷が閉鎖され1階席の後半分に「誘導」された。

f:id:kenjihas:20150802004351j:plain

(「ラ・ボエーム」のカーテンコール。演奏が始まってもおしゃべりが止まないは、演奏中でもスマホで写真撮るは、ウィーンやミュンヘンやミラノでは考えられない「温さ」だが、保守的な土地柄を反映してか、演出が終始「正当派アプローチ」だったので見易かった。とりたてて保守的な訳ではないが、観客に謎解きを仕掛けるような奇天烈な演出はどうも苦手である)

f:id:kenjihas:20150802005218j:plain f:id:kenjihas:20150802005240j:plain

(オーケストラ全員がカーテンコールに呼ばれた2月の「トリスタンとイゾルデ」。4時間近い不慣れなドイツ物をよく頑張りました、という指揮者ズビン・メータの粋なはからいか。右は12月のトロヴァトーレの時。撮影してくれた語学学校の同級生は、現在ローマのイエズス会教会本部にいる)