Viaggio nel Costa di Darmatia ① Dubrovnik (ダルマチア海岸への旅 ① ドゥブロブニク)

ナポリを15時半に出た高速バスで、バーリ港までほぼ3時間。バーリ港を22時に出航したフェリーは、ドゥブロブニク郊外のグルージュ港へ朝8時に到着する。乗り継ぎ時間を含めても存外早いものだと思う。

クロアチアはシェンゲン条約国ではないため、バーリで出国審査、ドゥブロブニクで入国審査を受ける。羽田の再国際化以来、欧州便は羽田空港からの発着枠を持つ「ANA/ルフトハンザ」か「JAL/エールフランス」ばかり利用してきたため、イタリアへ入国する前にシェンゲン条約国で入国審査を受けてしまう。実に、今回捺印されたバーリ港の出国印が、2008年以来使ってきたパスポートの記念すべき「イタリア入管初スタンプ」となる。

受験地理ではお馴染み、アドリア海東岸の「ダルマチア式海岸」。海岸線と並行する数列の山脈が沈水することで形成された独特の海岸地形だが、大規模な地形のため、船で航行している分には「海峡か広い水道」という印象が強い。しかし、外側の島列を越えて「内海側」に入ると、波は格段におさまり、湖のように穏やかな海面に変わる。その一方で偏西風の影響下にあるため、夏でも常に適当な西風が吹く。穏やかな海と適量の風に恵まれたダルマチア地方の港湾都市は、かつての水産都市や工業都市からヨットを中心とするマリンリゾートへの転換を競っている。

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(油を流したような内海を進むバーリ~ドゥブロブニク間のフェリー。右側のプレジャーボートが集まる港湾の上の斜面は、長期滞在者用の貸別荘やコンドミニアムが拡がっている)

さて、旅の振り出しは、あまりに有名なドゥブロブニク旧市街。アドリア海の景観を代表するオレンジ色の屋根と、ほぼ完璧に残された城壁との組み合わせは、上から眺めるに限る。とりわけ、海に開いた立派な城門を持つ東側からの景観が、個人的には一番気に入っている。

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(城壁からは、アドリア海の都市らしい、オレンジ色の屋根と青い海のコントラストを楽しむことができる)

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(東側から望見するドゥブロブニク旧市街)

この旧市街は、1979年に早々と世界遺産に登録されている。1972年のユネスコ世界遺産条約に基づく第1号の指定が1978年であるから、ドゥブロブニクは文句なく最初期に指定されたことになる。しかし、1991年~1995年にかけてのクロアチア独立戦争の際、ダルマチア地方の拠点都市として(独立を阻止しようとした)旧ユーゴ軍の攻撃を受け、一旦は危機遺産に登録された経緯を持つ(1994年に危機遺産解除)。

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 (ドゥブロブニク旧市街の「入口」にあたる3つの城門には、いずれも「戦災」を記録した平面図が掲げられ、観光ガイドが例外なく危機遺産指定の説明を行う)

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(▲が空爆による屋根への直撃弾、△が榴弾(陸上からの砲撃)による被害、オレンジ色の建物は焼失した歴史的建築物を示す。)

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(展望台として有名なスルジ山にある独立戦争博物館には、城門の図と対応させた当時の航空写真が展示されている。屋根が穴だらけになっていることがよく分かる。番号は、周囲の展示写真の撮影位置を示すもの)

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空爆を受けて炎上する91年当時の目抜き通り「プラツァ通り」。右は現在の姿で、炎上していたアーチ状の入口を持つ左の建物は土産物屋になっている。写真は、旧市街の旧総督邸にある歴史文化博物館の展示)

独立戦争当時、ドゥブロブニクの若い男性は皆最前線で戦ったため、空襲からの防衛は、予備役の警察官が指揮する中高年男性や女性であった。このことは、街に対する市民の一体感やプライドを醸成し、被害を最小限に留め得た旧市街の「観光資源」としての価値を高めた。ただ、皮肉なことに(なのかな?)、国際観光地ドゥブロブニクの誕生は、不動産の観光利用とそれによる地価高騰を招き、旧住民の多くは旧市街を去って周辺の新市街に移り住むようになった。実際、旧市街を歩くと、教会や邸宅など文化財として保全・公開されている建物以外は、ほぼ例外なく飲食店、観光客向けの物販店、土産物店、そしてプライベートルーム(民家の一室を観光客の宿泊に提供する施設、多くは全室がプライベートルームとなり、大家は旧市街の外に住んでいるケースが多い)や観光業などのサービス業に換わっている。これほど「生活の匂い」がしない旧市街も珍しい。身も蓋もない言い方かも知れないが、まさにテーマパーク化した中世都市である。2泊したプライベートルームもまた、英語のできる若いアルバイトの管理人が現場を仕切っており(彼はお金を貯めてロンドンで経済学を勉強したいそうである)、 彼によれば元々の「住民」であった大家一家は、やはり郊外に移り住んでいる。

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 (街の守護聖人「聖ヴラホ」の名を冠する聖ヴラホ教会のファサード独立戦争中は、市民によってファサードの彫刻を保護するバリケードが設けられた。左の写真は上と同じく歴史文化博物館の展示)

現状のドゥブロブニクをどう評価すべきかは難しい。少なくとも土地や建物の所有者の視点に立てば、命懸けで都市を護ったことが、資産価値の向上と新たな収益源の獲得に結びついたと評価することもできる。あるいは、急騰する固定資産税を払うために、収益性の高い観光産業に舵を切ったという人も少なくないだろう。しかし賃貸生活者の多くは、家賃の高騰に直面せざるを得ず、否応なく街を後にした筈である。

昼間の街で、ほとんど感じることがなかった「住民の結びつき」を垣間見たのは、夜に上記の総督邸で開催されたドゥブロブニク交響楽団定期演奏会である(狙って行った訳ではない。これを狙って行くようではもはやビョーキである)。演奏会は、地元の人が7割、観光客が3割という所だろうか。総督邸の中庭に設えられた会場は、座席数200たらずと小規模なことも手伝って、休憩時間など「ちょっとした街の社交場」の感を呈していた。そしてコンサートの終了後、着飾った人々の多くは城門を後にして家路についたのである。

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