Viaggio nel Costa di Darmatia ② Mostar (ダルマチア海岸への旅 ② モスタル)

ドゥブロブニクから、日帰りのツアーを探してモスタルへ出かける。モスタルはドゥブロブニクからバスで2時間ほど、ネレトヴァ川の流域に発達した古い渡津集落であり、隣国のボスニア・ヘルツェゴビナ領に含まれる。

昔(歳が知れるが)「ネレトバの戦い」(ユーゴスラヴィア映画!)という戦争映画があった。ネレトバ川を挟んでドイツ軍とソ連・ユーゴパルチザン連合軍が対峙する中、突如として北岸のドイツ軍が機甲師団を押し立てて攻勢に転じ、多くのソ連軍や市民が北岸に取り残されるという設定で話は始まる。映画では、チトー率いるユーゴパルチザンが縦横無尽の働きを見せ、北岸で決戦を挑むと見せかけて時間を稼ぎ、市民とソ連軍を南岸に避難させる。最後は、大活躍のパルチザン部隊も南岸に戻り、間一髪のタイミングで「唯一の橋」を爆破してめでたしめでたしという、まことに都合良くできたお話であった(とおぼろげに記憶している。最近DVDが発売されたらしい)。

この映画は、様々な情報を統合すると完全なフィクションで、この物語の下敷きとなるような史実は無いらしい(子供心にも映画のドイツ軍は間抜けだと思った)。しかしモスタルは、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の折、軍事上は何の意味も持たない古い橋梁を現実に爆破し、その「愚行」ゆえに名前が記憶されてしまった都市である。また、内戦後、掛け替えられた橋が例外的に世界遺産に登録されたことでも知られている。

ドゥブロブニクには、数多くの旅行代理店がひしめき、その多くがツアーバスを仕立てた日帰り~1泊程度のツアーを提供している。出発日が迫ると余席のあるツアーはディスカウントされ易い。当方も「翌日出発、定価34ユーロ」のツアーに28ユーロで申し込んだ。バスは20人乗りのマイクロで、ディスカウントの甲斐があったか満席であった。日本人(自分)、中国人のカップル、ニュージーランドの老夫婦を除く15人は皆ヨーロッパからで、イギリス人が10人と群を抜いていた。ドゥブロブニクからモスタルを往復する間に、トイレ休憩を兼ねて往復1つづつの小都市を引っかける。また、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ国境を2回(往復4回、それぞれ入国・出国を行うため8回パスポートを出す)越えるため、この部分の時間も馬鹿にならない。朝7時半に出発し、往路4時間半、復路4時間、モスタル滞在3時間で、夜7時にドゥブロブニクへ帰着するツアーとなった。

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(ネレトヴァ川を越える。ツアーバスは幹線道路ではなく、ネレトヴァ川に沿った裏道を東上し、小さな国境検問所を越える。パスポートチェックの待ち時間を短縮するためだそうである)

 モスタルは、「橋(most)の守人」という意味のボスニア語を語源としている。中央が、トルコ占領期の1557年~66年に建設された「古い橋(Stari Most)」である。モスタルでは、南流するネレトヴァ川を挟んで、東岸(下の写真の左側)にムスリム西岸(右側)にカトリック教徒という棲み分けが行われてきた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦が勃発した1992年当時、街にはStari Most以外にも数本の鉄橋が架けられており、とりわけ車の通行ができないStari Mostの軍事的意味は皆無に等しかった。しかし、1993年11月に橋は爆破された。

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(北側から見下ろすStari Most。後方には、鉄橋Lucki Mostが見える。こうした鉄橋が前後に数本あったにもかかわらず、Stari Mostは破壊された)

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(破壊前のStari Most(1970年代:写真は橋の東詰にある博物館の展示)と現況。橋ははいわゆるロマネスク風のアーチで支える構造であるが、アーチの上部が非常に薄く、シャープな外観を持つ。1567年当時、橋の強度を危ぶんだスルタンに対して、設計技師は「橋が落ちたら首を落として良い」と請け負ったという逸話が残る。当時のトルコの技術水準の高さを示す文化財であった)

さて、Stari Mostは、内線後の2004年にユネスコ資金援助によって同じ工法、素材で再建され、翌2005年には、現代に再建された建築物としては例外的に世界遺産に指定された。流石に、橋そのものの単独指定は物議を醸したため、「橋を含む周辺地域」という一体指定の形を採っている。ドゥブロブニクの「間一髪で護られた世界遺産」とは別の角度から、戦争と文化遺産との関係を問いかけるモニュメントとなっている。

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(橋の東側にある世界遺産指定の銘板。「モスタル旧市街の「古橋」地域」が指定対象とされている.上から順に、ボスニア語、クロアチア語セルビア語、英語。ツアーガイド氏は「ボスニア語とクロアチア語は75%は同じで、それぞれが母語で話しても通じる」と語っていたが、たしかに上の2列は同じである)

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ムスリムが多いネレトヴァ川の東岸地域の新旧。現在は土産物街になっているが、歴史的には繊維や木工などの生活必需品を扱う小さな手工業の工房が集まっていた。博物館の展示に従えば、Stari Mostは、16世紀まで「独立」していた2つの地域を結ぶことで、工業(東岸)と農業(西岸)の市場圏を対岸に拡大することを可能にし、地域の経済発展に寄与した、とある。そのような歴史が、内戦においては「破壊の口実」とされたのかも知れない)

 

おまけ。ドゥブロブニク 旧港の夜。集会中でしょうか?

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