Le città dell'Italia meridionale (南イタリアの都市群)

12月22日から29日まで、プーリア州(イタリアの「踵」)を中心に、大小いくつかの都市を回りました。来年に向けての資料収集が目的ですが、そもそもクリスマスにナポリで1人ふらふらしていると、こちらの先生方が気を遣うので。

バーリから、レンタカーでほぼ時計回りにサレント半島(ヒールの部分)を1周。主要都市は、バーリ(アドリア海に面した港湾都市)、トラーニ(十字軍が船出した港町の1つ)、アルベロベッロ(トゥルッリが世界遺産)、オストゥーニ(白い丘上都市)、ブリンディジアッピア旧街道の終点)、レッチェバロック建築)、オトラント(トルコとの攻防の最前線)、タラント(古代ギリシャのポリス、現在は工業都市)、マテーラ(穴居「サッシ」が世界遺産)。これに道筋の小都市をひっかけて合計1,100km、おおよそ東京-大阪を往復した距離になります。

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ナポリ-バーリ間の高速バスで越えたアペニン山脈。新期造山帯だが南部のこのあたりは標高も低く、なだらかな丘陵を横切る感覚)

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(バーリの旧市街。日本の観光ガイドはこぞって「バーリ(特に旧市街)は怖い」と書くが、急速に治安は改善している。クリスマス直前ということを割り引いても、旧市街にはレストランが数多く出店し、写真を撮影した23時頃でもこれだけの人通りがあった。1996年にEUの都市再生プロジェクトの予算がついたことに加え、バーリ空港が近年改装され、ローマやミラノから観光客が直接入ってくるようになったことが大きい。彼らの目的地は、多くがアルベロベッロやマテーラ(いずれも世界遺産)で、世界遺産の地域的な波及効果の大きさを(善し悪しはともかく)あらためて感じさせられる。)

 

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(バーリ市当局は、警官の巡回等で犯罪を抑制するとともに、一般市民が気軽に旧市街にやってくるイベントを計画的に企画している。spacca Bari(spacca Napoliから来ているのかな?)と名付けられたこの企画は、旧市街の入口にある公共施設を利用したartist in residence。プレゼピオ制作から似顔絵まで、多くのartistが参加し、子供連れで賑わっていました。)

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アルベロベッロ近郊のトゥルッロ:複数形がトゥルッリ。由来はさまざまに言い伝えられているが、この地方に多い石灰岩と凝灰岩を上手に組み合わせて、夏涼しく、冬暖かい家屋に仕立てている。)

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アルベロベッロに近い丘上都市ロコロトンド。古い環状都市の道路配置をそのまま引き継いでおり、都市形態の発展を考える上で面白いヒントが沢山ある。周囲はブドウ畑が多く、ここのスプマンテはキレがあってとても美味しい。)

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(丘上都市オストゥーニ。Città di Bianca(白い都市)というキャッチフレーズで観光開発に成功した。クリスマスイブをこの街で過ごしたが、24日はいたって静かな日で、プレゼントを抱えて足早に家路を急ぐ人が目立った程度。レストランはがらがらだった。 )

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アッピア旧街道の終点ブリンディジ。2本(あった)円柱は、旧街道の終点を示す。右の1本は、17世紀のペスト禍から街を救ったとされる聖オロンツォ(レッチェ守護聖人)に感謝するためレッチェに寄贈された、とされている。ブリンディジは、中世のエルサレム巡礼に始まり、十字軍の進発、地中海交易、スエズ開通後は東インド航路の起点として、イタリア東部でも最も栄えた港町の1つであった。)

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レッチェの広場。右に立つ円柱がブリンディジから贈られたアッピア街道の円柱で、柱頭に危なっかしく立つ銅像が聖オロンツォ)

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(サレント半島に延々と広がるテラロッシャ土壌とオリーブ畑の組み合わせ。高校地理Aの教科書の口絵によくある構図だが、実際こうした光景の中をただただ車で走る)

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(オトラントは、1480年の対トルコ戦争時に起きた「オトラントの大虐殺」で知られる。街の中心にある大聖堂は11世紀にノルマン人によって建てられ、トルコ占領時にはモスクあるいは馬小屋として使用されたが、外観はほぼ創建当初の様式を維持している)

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(聖堂の床一面に、12世紀の修道僧パンタレオーネによるモザイクが残る。文字が読めなかった当時の一般市民に教義を解説するための工夫とされる。右端はカインとアベルの挿話。)

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(トルコ軍に改宗を迫られ、拒否した市民800人は全員斬首された。彼らは殉教者に列せられ、その骨はキリスト教勢力によるオトラント奪還後、聖堂内にあるマリア礼拝堂の5面のガラスケースに納められた。)

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(タラントの重化学工業地帯。イタリア経済の深刻な南北格差を是正するため、イタリア政府による開発公社を主体として、WWⅡ後、重化学工業基地の建設が進められた。その経済効果への評価は難しいが、ギリシャ都市以来の旧市街(città Grecia)と重化学工業基地が隣り合う(それだけに遺跡保護が難しい)珍しい景観を呈している。

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(タラント国立考古学博物館は長期間にわたる修復の末、近年再公開された。展示物の大部分は、ギリシャ、ローマ時代のモザイク、石像物、装飾品、生活用具で占められ、あらためてイタリア南部の「旧市街」が、ギリシャ、ローマ都市の上に中世以降建設されてきた「新市街」であることを理解できる。)

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(灌漑用水と牧草地。ローマ水道と同じく、丘陵地の標高差をクリアするため導水管は高所を走る。灌漑で利水可能な地域では、オリーブ主体の粗放的な地中海式農業から牧畜への転換が可能になった)

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(ゴールのマテーラは、石 灰岩の河岸段丘の段丘崖に、古代以来「穴居」(sasso)が創られ続けてきた場所。WWⅡ後、政府によってsassiの住民を丘上の公営住宅に強制移住させる政策が実施され、sassiは無人化したが、近年、ホテル、レストラン、博物館、アート系・カル チャー系施設への再利用も進んでいる。実際は、車でアクセスが可能な谷底と、新市街と接する上部の再開発が先行し、中間部分が取り残されていることが課題。)

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都市化が進み、中間層、富裕層は丘上の近代都市に移り、農民や貧困層がsassiに取り残された結果、文字通り所得階層の垂直分化が視覚的に見られる都市となった。)

と、駆け足で9日間の都市巡検を振り返りましたが、クリスマス休暇の時期であるにもかかわらず、お邪魔した官公庁では大変良くしていただきました。ただ、英語の資料などあろうはずもなく、イタリア語の資料・文献だけが増えていきます・・。

今日12月31日、ナポリは雪!家の前に駐車している車にもうっすらと雪が積もっています。

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ちなみに今晩ナポリの広場で行われるカウントダウン行事は、「イタリアで一番火薬の使用量が多い」と言われているヤバいものだそうです(もちろん行ってきます)。

皆さん、良い新年をお迎え下さい。