Parigi ① (パリ ①)

ナポリ-東京の直行便は無いので、どこかで乗り継ぎ(transit)が必要になる。今回の一時帰国はJALのマイルを使う関係で、乗り継ぎ都市はパリ(昔はローマ便があったのに・・・)。7日にパリ発東京行、14日に東京発パリ着。ちょうどシャルリー・エブド(Charlie Hebdo)事件の当日パリを離れ、話題を呼んだ最新号の刊行翌日にパリへ戻ったことになります。

およそ先進国の首都で、パリ中心部ほど建物のスカイライン(高さ制限)に厳しい国はありません。このため今日でも、1853年に始まったオスマンのパリ改造で再構築された都市景観を大筋でたどることができます。

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オスマンの都市改造により、迷路状の中世都市パリは一部を除いて消滅し、放射直線状の計画道路と、厳格なスカイラインを持つ建物群の組み合わせに生まれ変わった。凱旋門上から望む右側の大通りがシャンゼリゼ。左奥の丘はモンマルトル)。

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スカイラインが厳格に揃うサン・ジェルマン大通り。階層ごとの高さ制限も存在し、原則として上層階ほど天井高が低くなるため、オフィスは低層、住居は高層という区分が生じやすい。)

 

この高さ制限は、当然ながら都市全体の容積率を限定するため、都市の経済成長(あるいは経済成長にともなう床面積の供給)を阻害する。しかし、パリ市民の多くはこの高さ制限がもたらす「美観」を支持しており、住民投票を実施しても「容積率緩和派」は少数派という(阿部和俊『都市の景観地理-大陸ヨーロッパ編』)。パリ市街南部再開発の切り札と目されたモンパルナスタワーも、地元では支持率が低い。

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(レンヌ通りから望見するモンパルナスタワー。レンヌ通りの整ったスカイラインと際立つ対照を見せる。)

 

その結果、世界都市パリに集積する国際企業は、まとまった床面積を求めて、制限の緩やかな郊外の高層ビル群を目指す。パリ北西部、シャンゼリゼの延長線上にあるラ・デファンス(La Defense)はその代表例です。

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(凱旋門から望見するラ・デファンス(La Defense)の高層ビル群)

 

直線状の街路と、これが形成する大ききな区画を囲むように建つ建物群の真ん中に「通り抜けの道」をつくり、その両側を店舗化したものがパサージュ(Passages)です。京都の厨子(辻)と同じ理屈ですが、1)ビルの壁面に忽然とエントランスがある、2)街路の両端(周囲を囲む建物の下)の堅牢なアーチと、採光を兼ねた中間部分(中庭部分)のガラス屋根(アーケー ド)のコントラストが明確にある、などの特徴が、19世紀のパリを彷彿とさせます。

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(ビルの壁面に口を開くパサージュの入口(Passage Verdiau))

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(ガラスのアーケード(中庭)と建物部分との対照も興味深い。このパサージュでは、建物部分がホテルに利用され、パサージュはホテルを迂回するように向かって左へ曲がる。現在でも、古書、画廊、カフェ、手芸用品など伝統的な文化産業の性格を持つサービス 業が多いことは事実だが、時代の波とともにパサージュの数は減少し、業種も多様化している。)

 

このパサージュを単なる商業集積としてではなく、パリの生活文化や都市と消費の有り様を読み解く鍵として評 価したのは哲学者のベンヤミンで、彼の名前を冠したホールもあります。ただフランス政府は、ベルリン生まれのユダヤ人であったベンヤミンをWWⅡ前夜に敵性国民として投獄し、またパリ陥落後のビシー政府は、ナチスを刺激することを恐れてベンヤミンの亡命を認めず、最終的に彼をピレネー山中での自死へと追いやった。それを考えると、彼の著した『パサージュ論』の学問的評価に推される形で彼を顕彰し、政府管理下にある1パサージュに彼の名前を冠したホールを設けたフランス政府の対応は、多少ご都合主義であるようにも感じる。

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国立国会図書館分館として用いられているパサージュ:Galerie Colbertに設けられたSalle Walter Benjamin)