Berlino ② (ベルリン ②)

11月28日は、ベルリンの壁(跡)をたどって市内を歩く。都市ベルリンは、旧東ドイツの中にあり、西側に属する旧西ベルリンは一種の「飛び地」であった。このため、ベルリンの壁は、正確には東西ドイツを分断した国境線の一部ではなく、西ベルリンを取り囲み、東ドイツ市民が西側に逃亡することを防ぐ、東ドイツ(ソ連)による封鎖壁であった。

1989年の壁崩壊から25年、ベルリンの壁は、数カ所に保存目的で残されている以外はほぼ撤去されている。しかし、ベルリンの観光地図の多くには「壁跡」が記されており、壁の跡を容易にたどることができる。

今回は、シュプレー川に沿ったミューレン通り(下の地図の右下)から、時計回りにベルナウアー通り(地図の真中の上)まで、約10kmをたどりました。

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(ホテルで無料配布している観光地図にも壁跡は朱線で記入されている)

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(地下鉄Schlesisches.str駅の東側。現在のUバーンは左にカーブしてシュプレー川を渡るが、1989年まではここで運転が打ち切られた)

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(最も長く「壁」が残されているミューレン通り。約1.5kmの壁がキャンバスとして提供されている)

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(この遊歩道がかつての壁跡で、左が西ベルリン、右が東ベルリン。至る所に、壁が出来る前、壁の建設、壁があった時期、壁の破壊を時系列で説明する標識が設置されている)

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UバーンのMoritzplatzに近い住宅地。道路に埋め込まれたタイルが壁跡を示す。右側の東ドイツ側では、逃亡防止用の緩衝帯を再開発した住宅建設が盛ん)

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ベルリンの壁 1961-1989)

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(オフィス街に近いツィンマー通り。壁の崩壊後、その線(男性のオブジェが乗っている壁の線)を越えて西側の再開発が進んだことを示す)

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フリードリッヒ通りに置かれたかつての「チャーリー検問所」跡。東ドイツの軍服を着た男性の写真の向こう側が旧東ベルリン。ベルリンの壁の象徴的存在として、今や観光名所)

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(検問所横の広場では、25周年を記念して検問所の推移を見せる写真展示が行われていました)

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(東西統合の象徴といわれるポツダム広場。正面の交差点をかつては左右に壁が走っており、右に見えるポツダム広場駅の入口は旧西ベルリン、写真を撮影している場所は東ベルリン)

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ベルリンの壁の特性が、最も良く分かるのは、SバーンのNordbahnhof(北駅)に近い保存区間。手前が西ベルリン、奥が東ベルリン。壁は二重に配置され、中間の緩衝帯にパトロール用の小径が通る。奥の壁の後側も100m近い無人地帯が設けられていた。)

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(この保存区間の横にある記念碑。1961年から89年までの間に155名が逃亡もしくは逃亡幇助で射殺されている)