Ravenna (ラヴェンナ:北東への旅②)

初期キリスト教建築群が世界遺産に指定されているラヴェンナ。5世紀から6世紀にかけて、ビザンチン文化の影響下で花開いた数々のモザイク群を見ることができます。

ラヴェンナは、アウグストゥス帝によるアドリア海艦隊(クラッセ艦隊)の軍港建設によって、一躍ローマ帝国内における重要性が高まりましたが、現在残る教会建築群の基礎が築かれたのは、ホノリウス帝による5世紀初頭の西ローマ帝国ラヴェンナ遷都から。やがてラヴェンナは、西ローマ帝国を滅ぼした東ゴート王国の首都、その東ゴート王国を滅ぼした東ローマ帝国の(西ローマにおける)政庁所在地として中心地機能を維持し、この時期に数多くの教会や宮殿が建設されました。

ラヴェンナの中心性は、外港クラッセ(ラテン語ではクラッシス:Classis)の力によるところが大。軍港として開発されたクラッセは、その後アドリア海に開いた商港として栄え、東西貿易のみならず、東西キリスト教文化の橋渡しの役割を果たしました。しかし、度重なるウニティ川(F. Uniti)の洪水で海岸線が約3km沖合に後退したため、クラッセの港湾機能は中世以降急速に衰退し、外港を失ったラヴェンナもまた歴史の表舞台から姿を消すことになります。土砂堆積による港湾の衰退が都市の経済機能を著しく後退させた例は、ブリュージュ、堺など東西を問わず枚挙にいとまがありませんが、一方でこのことが、ラヴェンナの教会建築群を戦乱から護ったとも考えられます。

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(かつての港湾都市クラッセがあったと想定される場所は、一面の沖積平野。現在は南のリミニ、北のベネチアを結ぶ道路の結節点になっている)

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(かつてのクラッセ(CIVI CLASSIS)の栄光は、6世紀のモザイクに残されている:サン・アポリナーレ・ヌオーヴォ教会(ラヴェンナ市内))

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(クラッセの昔日の栄光を物語る数少ない(唯一の?)遺跡・サン・アポリナーレ・イン・クラッセ教会。聖遺物である聖アポリナーレの遺骨をめぐるヌオーヴォ教会との争いは、ローマ法王の裁定を仰いだ)

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(クラッセ教会後陣のモザイク画(6世紀後半)。聖アポリナーレを中心に、左右12匹の羊は12使徒。中央の十字架=メダイヨンはキリストの象徴で中央にキリストの顔が描かれ、その左右3匹の羊は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ

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(7つの封印の書を持ち、髭の無い若者の姿で描かれたキリスト。金色を主体とする背景を含め、ビザンチン文化の影響が大きい:サン・ヴィターレ教会)

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 (ひたすら犠牲のモティーフが続く。左はアブラハムとイサクの物語。右はアベルの供物。アベルはこの供物を巡って兄カインの嫉妬を買い、兄に殺害される(ことになっている):サン・ヴィターレ教会)

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(かわいらしいラヴェンナの中央広場:ポポロ広場)

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ラヴェンナ中心市街地とクラッセを結ぶ「4番」のバス。駅前で「クラッセ行きますか?」と聞いたら「街の中心に寄るけど行くよ」と言われた。しかし、この路線は駅を頂点とする「へ」の字の運行経路を持っており、実際は中心市街地を越えてはるか郊外(への字の左下)の病院まで連れて行かれた挙げ句、もう一度駅前通りの反対側のバス停に停まり、5km南東(への字の右下)のクラッセまで、計45分かけて到着した。「反対側に乗れ」と言ってくれればいいのに・・・)