Monaco ① (ミュンヘン ①)

今年3回目のアルプス越えで、今回の目的地はドイツのミュンヘン。日本往復の中継港として重宝しているミュンヘンですが、昨秋以来降り立つのは初めてで、2012年春以来の訪問になります。今回はミュンヘン工科大の先生(都市地理学)との打ち合わせと、彼に教えて貰ったいくつかの再開発事例の見学。

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(今年3回目のアルプス越え。圏谷(カール)底の雪が大分少なくなり、春が近いことを感じさせる)

ミュンヘンはイタリア語でMonaco。モナコ公国と同じ綴りで、区別するためにMonaco di Baviera(ババリアモナコ)と言うか、Germania(ドイツ)を付けるのが正式ではあるが、たいていは文脈で判断します。修道士を意味するmonacoがその語源ですが、そもそもはミュンヘンが修道士(ドイツ語のMönch)によって建設された村を母体としている為で、12世紀半ばに、ハインリヒ獅子王によって都市建設がなされました。

第二次大戦で、ヒトラーに縁の深いミュンヘンは連合軍の爆撃にさらされ、中心市街地の80%近くが焼失しました。戦後、バイエルン州政府とミュンヘン市は、1)中心市街地(旧城壁の内側)は、原則として建物環境を戦前の通りに再現する、2)城壁内側の東西道路(ノイハウザー通り~マリエンプラッツ~タール通り)を歩行者空間とし、高次の商業機能を集中させる、3)郊外と地下は徹底して新しい交通インフラを入れる、4)特に中央広場(マリエンプラッツ)は、東西方向の鉄道(Sバーン)と南北方向の鉄道(Uバーン)が交差する駅とし、郊外住民が中心市街地に公共交通機関で来れる環境を整備する、という都市再生の骨組みを1950年代に策定し、現在、その整備の最終段階に入っています。

この理念は、ある意味で日本の改正中活法の先取りともいえるものですが、こうしたハード環境(街づくり)に対する長期的な青写真と、それをぶれずに実現していく推進力は、残念ながら日本の遠く及ぶ所ではありません。どのようなまちを創るかという「理念」を抜きにして、個々の法律の条文だけを真似てもあまり芳しい結果は得られないことを、中活をめぐるこの間の紆余曲折が実証しています。

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(西の城門があるカールスプラッツ。ここから東に延びるノウハウザー通りが、ミュンヘン中心市街地の商業核となる。右は中央広場(市役所)のマリエンプラッツ。長らく東西方向のSバーンに加えて、南北方向の公共交通を担うUバーンが整備され、文字通りミュンヘンの公共交通の十字路となった。)

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(市役所北に整備された広場。この下にU3,U6の駅が収まっている)

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 (ドイツの大都市の中心市街地によく見られる野外市場(マルクト)。マリエンプラッツの南側にあるViktualienmarktは、生鮮品のほか、チーズ、香辛料、ワイン、ハチミツのほか、季節の雑貨品(復活祭、クリスマスなど)を扱う商店が並ぶ)

 

まったく余談ですが、マリエンプラッツの北側に、かつて三越ミュンヘン店がありました(2006年末に閉店)。三越といっても、小さな2階建てのスペースですが、歴史的には、JALPACKなど海外向け団体ツアーが大衆化した1970年代以降、英語が苦手で、時間が無い日本人団体観光客に「日本語で、手早く、免税手続込みで」欧州の土産物を提供するセレクトショップとして重要な役割を果たしていました。海外三越の先駆けはパリ、ローマ、ロンドンなどで、ミュンヘンを含むドイツ法人の設立は1970年代の末。しかし、時間が自由な個人旅行が主流となり、ショッピングの英会話には不自由しない観光客が増えるにつれて、この種の店舗はその使命を終えたとも言えます。跡地はアイリッシュパブになっていました。

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(左は三越時代の2004年に撮影。右は2015年の今回。一時期、ベルギー系のカフェが入っていた時代もあったようだが、現在はアイリッシュパブ