Itaria Centro ① Perugia (イタリア中部 ① ペルージャ)

南イタリアの各都市で活躍されている何人かの地理学者にコンタクトをとり、5月初旬から順次ヒアリングの予定。それまでの間、まだ足を運んでいなかったイタリア中部のウンブリア、トスカーナ、ラッツィオの各州にある、いくつか特徴的な都市を見て回ることにする。

コースは、ペルージャアッシジシエナ、サンジミニャーノ、ピサ、ルッカ、オルビエート、ティボリ、そして終点がローマ。ナポリから「振り出し」のペルージャまではプルマン。イタリアのプルマンのネットワークは大したもので、ローマやフィレンツェに比べれば人の流れも少なく、地理的にも南へ偏っているナポリだが、「ダメ元」で検索すると大抵の都市との間に路線がある。運行会社はペルージャに本社があるSulga社で、アッシジペルージャナポリ-ポンペイという路線を、1日1往復運行している。

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ナポリペルージャ間は4時間40分の行程だが、キャンペーン価格で片道わずか20ユーロ。イタリアの高速バスの多くはwifi完備。2階建てバスだと厳しい場合もあるらしいが、通常のハイデッカーであれば快適につながることが多い)

ペルージャは、ウンブリア州の州都で典型的な山岳都市。良く「中世都市」と呼ばれるが、現在の都市構造や、景観を形成する建築環境が整ったのが13~15世紀ということであり、都市そのものは紀元前5世紀の古代エトルリアの時代に遡る。ローマのあるラッツィオ州をはじめ、隣接するウンブリア州トスカーナ州は、教皇派(グエルフィ)と皇帝派(ギベリン)の勢力争いの舞台であり、軍事上、あるいはマラリアなどからの防疫上の理由から、都市は低地を避けて尾根上に構築され、尾根筋に沿って発展していった。

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(北西の門、Porta St.Angeloから望見するペルージャ旧市街。尾根に沿って都市が細長く伸びる様子がよくわかる。塔の中は小さな歴史博物館になっており、簡単な模型を使って、ペルージャの歴史的な発展の状態を分かりやすく説明している)

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(地形的な条件ゆえ、街へ入るには例外なく長い階段を上がる必要がある。今日では、このアップダウンの負担を避けるため、エスカレーターやエレベーターが主要な門や駐車場の近くに整備されている)

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(狭い土地を有効に利用するため、垂直的な都市構造が山岳都市の特徴であり宿命であるが、ペルージャは、まるでエッシャーのだまし絵を見るように道路が重なり合う。中央の階段はアッピア通り(via Appia)で、ローマ水道橋(写真中央のアーチの下に写る橋。現在は遊歩道)の下から階段で上がり、写真中央のアーチより、さらに一段高い面まで上がる)

ペルージャやお隣のアッシジが典型的であるが、この地域では、白色と桃色の二色の石灰石が算出される。この2色の石材を活かしたウンブリアの建築物は、どこか開放的で目に優しい。

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(左はかつて同業者組合が豪壮な広間を持ち、現在は美術館にも使われているプリオーリ宮。右は、サン・ベルナルディーノ教会のファサード(左)と美術アカデミー)

冒頭で触れたように、ペルージャの都市建設は、紀元前のエトルリア人に始まり、ローマ帝国を経て、中世にほぼ現在の骨格が完成した。その歴史的な重層性を象徴するのが、街の「北門」にあたるアウグストゥス門。別名をポルタ・エトルスコ(エトルリア人の門)。

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(門の本体はエトルリア時代に構築され、オクタヴィアヌスによって上部構造が設けられ、ルネサンス時代の修復の際に最上部のアーチ装飾が設けられた)

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(プリオーリ宮が面している「11月4日広場」で行われていた、民族衣装をまとった少年鼓笛隊によるデモンストレーション。5月から7月にかけて、イタリア各地でこうした伝統行事が行われる。バックの都市景観と伝統的な衣装が見事にマッチして、それは「絵になる」ことおびただしい)