Itaria Centro ④ San Gimignano (イタリア中部 ④ サン ジミニャーノ)

シエナから日帰りで「塔の町」サン・ジミニャーノを往復する。フィレンツェシエナ間のプルマンから遠望できる通り、中世のトスカーナで覇を競った2つの都市の中間に位置する。シエナからサン・ジミニャーノまでは市バス130番で小一時間。郊外バスの延長という風情であり、30分ほど走って地元の客があらかた降車した頃、国鉄のポッジポッシ駅に着き、ここでフィレンツェからサン・ジミニャーノを目指す観光客で再び満員になる。路線の前半と後半で客層ががらっと入れ替わる面白い路線である。

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サン・ジミニャーノは不思議な町である。アッシジに似て、山の斜面を利用した長細い山上都市であり、背後の丘には城塞(Rocca)の廃墟が残る。しかし、南北に長い都市の長辺は直線距離で500m足らずである。この小さな都市に、13世紀の最盛期には72基もの塔が林立していたという。1)その経済基盤が何だったのか、2)なぜ経済力が塔の建設に向けられたのか、そして、3)なぜ、他の都市では多くの塔が破却されたにもかかわらず、サン・ジミニャーノでは多くの塔が残されたのだろうか(現存14基)。

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そのあたりの経緯を、町の歴史博物館で販売していたガイド「New Guidebook of San Gimignano」の’Histrical Notes’から要約すると次のようになる。

都市の起源は、紀元前6世紀に遡り、トスカーナの多くの都市と同様、エトルリア人によって拓かれた。町の名前の起源は、4世紀に蛮族の侵入から町を守ったとされるモデナの僧正・聖ジミニャーノに因んでいる。

サン・ジミニャーノの経済的発展は、ローマから北上する主要街道であるvia Francigena(フランチジェーナ街道)と、フィレンツェ~ピサ間を結ぶvia Pisana(ピサーナ街道)との結節点となった9世紀から進み、11世紀末から12世紀初期にそのピークを迎えた。この経済力を背景に、富裕な商人や支配層である貴族が競って塔を建設するようになり、12世紀にはすでに'Turrented City'(塔の町)という異名を持つようになった。1199年には自治都市となっている。

しかし13世紀に入ると、教皇派と皇帝派の主導権争いが町を疲弊させ、1348年のペスト禍が致命傷となって、1353年にフィレンツェの支配下に入ることを余儀なくされた。その後、フランチジェーナ街道が使われなくなったこと、シエナが弱体化したことでフィレンツェ前進基地としての必要性が無くなったことから、経済的、軍事的にサン・ジミニャーノの価値は低下し、16世紀以降に都市は著しく衰亡した。14基の塔が破却されずに現存する理由は、それを取り壊すだけの経済的な力すら残されていなかったから、という事に尽きるらしい。

さて、小冊子に紹介された町の小史は、上記の3つの疑問に一通りの答えを与えてくれる。要するに、中世の交通結節点として経済的繁栄を誇り、その象徴として競うように建築された塔が政情不安の中で実用性を帯び、その後の急速な衰亡によって「残ってしまった」のだ。日本各地で最近注目されている「昭和レトロ」のまちづくりとも一脈通じるものがある。「昭和レトロの街」の多くは、モータリゼーションが発達した1980年代以降に急速に衰退し、更新はおろか取り壊すこともままならぬ中で「残ってしまった」中心市街地の街並みであり、それが今になって「レトロ」という記号とともに脚光を浴びているのである。しかし何と言ってもサン・ジミニャーノ世界遺産。「残されてしまった」14基の塔は、中世そのままの街並みと相まって世界中からツーリストを集める観光資源となっている。

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(72基の塔のうち、70基までが貴族や商人による「私有」の塔であったという。コミューンが持っていた2基の塔の1つ、ポポロ宮にそびえる51mのロニョーサの塔には登ることができる。写真は南方向を望んだもので、これでサン・ジミニャーノ旧市街の約半分になる。小さな町の外側には、いかにもトスカーナらしい波打つ高原地形と農村景観が広がる)

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(ツーリズムとしての「売り文句」は、Town of Beautiful Towers(美しい塔の町)だそうだが、お世辞にもBeautiful Towersとは思えない無骨な構築物である。日本語は便利で、「美しい」は「町」にかかるという方便も成り立つが、英語は論理関係がきちんとしているのでそうはいかない)

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(中世には、敵対するフィレンツェシエナの中間点にあることが、軍事拠点としての役割をこの都市に与えたが、現在はこの2都市からそれぞれ多くの観光客が供給されるため、メインストリートは飲食店と土産物店で空き店舗は全くない。ただし、お値段は高めのため、エコノミー志向のツーリストは、地元の人が利用する切りピザ屋を利用する。私も昼ご飯をお世話になりました。マルゲリータとミネラルウォーターで3ユーロ)

 

塔とは、本質的に軍事的な機能を持つ構築物である。サン・ジミニャーノの塔も、皇帝派(ギベリン)と教皇派(グエルフィ)の内乱が激しくなった13世紀末から14世紀にかけて、しばしば軍事的にも利用された。物の本によると、対立する勢力に攻め込まれるなど非常の際には、隣接する塔に渡り板をかけて逃走路としても使われたとか。この小さな都市に72本の塔が林立していたこと自体が戯画的であるが、その塔と塔との間に板を渡して人があたふた逃げまどっていたという挿話は、そのままイタロ・カルヴィーノが描く幻想的な都市の物語の一部のようだ。

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