Itaria Centro ⑥ Orvieto e Tivori (イタリア中部 ⑥ オルヴィエートとティボリ)

関東山地の北辺にそそり立つ両神山を「コンクリートブロックを突き立てたような」と表現したのは深田久弥氏の「日本百名山」だったが(手許に本が無いので字句は不正確かもしれない)、オルヴィエートもまた垂直に切り立った凝灰岩の岩塊の上に発達した都市である。トスカーナ、ウンブリア、ラッツイオの諸州にかけては、こうした岩塊が数多く見られ、その上には多くの集落や都市が営まれている。他の都市と同様、オルヴィエートもまた、軍事(防御)と防疫(主にマラリアの回避)という2つの目的を持つ山上都市と言われる。

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(「コンクリートブロック」の上までは、麓の鉄道駅からロープウェーで約5分)

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(丘は、東西に長い楕円形をしているが、長辺の長さが1kmほどで十分歩いて回れる。モーロの塔があるレプブリカ広場が街の中央広場。テントは、開催中のジェラート祭。トスカーナを中心に16のジェラートメーカーが集まり、「4カップ7ユーロ」の前売り券を買って、市内3カ所の会場でジェラートを食べ歩く。2カップ食べて流石にお腹いっぱい。残る2枚は、ホテルのレセプションにいたお嬢さんに差し上げる)

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(山上都市の泣き所は水の供給。オルヴィエートの「名物」は、凝灰岩の岩塊を貫いて水脈に下りる深さ62mの「サン・パトリッツオの井戸」。1527年のいわゆるランツクネヒトのローマ略奪の際、当地を避難所にした教皇クレメンス7世の命で掘られた。水桶はロバが運び上げ、その道は上りと下りが独立した二重螺旋構造になっている。現在も、その道をつたって62m下の水源まで下りることができる。巨大な「まいまいずの井戸」か)

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(二色の石材を層状に積み上げたデザインで知られる大聖堂。イタリアンゴシックの代表作)

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(大聖堂にほど近い小路。いくつかの木工工房が集まる路で、可愛らしいストリートデザインを見せている)

 

オルヴィエートからティボリまでは、レンタカーを利用し、いくつかの小さな山上都市を繋いで南下した。20年以上前に竹内裕二氏の「イタリア中世の山岳都市」を読んで、「こんな都市が現存しているのか」と驚いた覚えがある。いずれの都市も、「都市」というよりは「聚落」であり、オルヴィエートと同様、軍事上の理由と防疫上の理由で山頂や稜線に立地したと考えられている。竹内氏の著書では、各聚落における「人々の生活」が記録されていたが、それ四半世紀近くが経った今、聚落の多くは様変わりし、「観光地化」するか、あるいは隣接する新市街に人が移動し空き家が目立つかの、二者に別れつつあるあるように感じた。基本的に第一次産業に依存した地域で住民の高齢化が進み、階段が多く自家用車が利用できない山上都市は、生活が維持できないのだという。しかし、この小さな聚落のいずれにも教会があり、教会前には広場が設けられている。西洋の都市(聚落)における広場の重要性を再認識する。

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 (観光地化の一例は、オルヴィエートからほど近いチヴィタ・デ・パッデレージョ。2ユーロの施設維持費を払って「入場」する。日本からも、「天空の城」(ラピュタのモデル?)という文脈で団体客がしばしば来るとのこと。現住民は6名で、住民数を上回るオステリア、ワインバー、アトリエ、土産物店が揃っている)

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(山の上に軍艦を乗せたような景観を持つ、サン・グレゴリオ・ダ・サッソーラ。防御上の弱点である稜線上に城塞を配置し、防御を固めている。現在、城塞を中心とする「博物館」が計画されているらしいが、現状は「準備中」)

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(同じく、二本の沢に挟まれた細い尾根上に建設されたポリ。中央に1本だけ背骨のように通る路から、魚のように両側に「小骨」のような路が延びる。しかし、中央通路はしばしば階段となり、車で上下できないことから、高齢化が進む住民は、隣接する新市街に移りつつあるという)

 

山上都市を繋いで到着したティボリは、ハドリアヌス帝の別荘(ヴィラ・アドリアーナ)と、噴水で有名なエステ荘という、2つの「世界遺産」を持つ。時間の関係で、今回はヴィラ・アドリアーナをパスし、リストに敬意を表して?エステ荘へ。ティボリはローマから約40km東にあり、テベレ川に向かっていくつもの支流が流れ込む「水源地」。ローマへ水を供給した水道橋も残されており、「水の造形」を試みるには最適な場所であったかも知れない。

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(もはや、別荘の建物そのものより、噴水が有名になったエステ荘。フランツ・リストは晩年の一時期この別荘に滞在し、「巡礼の年 第三年」に含まれる有名な「エステ荘の噴水」を作曲している)

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(邸内には40近い噴水群がありこれらを回遊する通路が設けられている)

 

旅の終わりはローマ。今回のローマ歌劇場の出し物は「Aida」。もし、昨年の補助金打ち切り、楽団員の大量解雇という問題がなければ、(それがもとで辞任してしまった前音楽監督の)リッカルド・ムーティが指揮し、新演出によるプロダクションが予定されていた今季の「目玉」。それはそれで残念だったが、若い指揮者ビニャミーニ(J. Bignamini)は大変繊細な音楽づくりをして見せた。ちなみに、2幕2場の有名な凱旋の場は、男性バレー団員6名のバレーによる「凱旋行進」という面白い演出でした。

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