Wiener Urlaub ① Die Ringstrasse (ウィーンの休日①:リング環状道路) 

ウィーン滞在はあくまで「休日」。明確な研究目的を持った滞在ではありません。見に行く場所も足の向くまま・・・。

昨年11月のベルリンは、「ベルリンの壁」崩壊25周年(1989年11月)で盛り上がっていたが、現今のウィーンは、有名な環状道路(Ringstrasse)の150周年(1865年5月)。いくつかの企画展が行われ、また企画展には至らないまでも、通常は展示していないRing関係の収蔵品を特別展示している美術館もちらほら見られた。

Berlino ② (ベルリン ②) - Dov'e il centro urbano?

そうした中、王宮の一角にある国立図書館ブルンクザールで開催されている「Wien Wird Weltstadt」展を見に行く。直訳は「Vienna became a capital」だろうか。ウィーンの城壁撤去と(その跡地開発としての)環状道路および周辺施設の開発をめぐる都市史の展示であり、豊富な写真と一次資料の展示に圧倒される。すべての説明がドイツ語と英語の完全併記となっていたことも有り難かった。

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(企画展が行われている国立図書館ブルンクザールの外観と内部)

「ウィーンの環状道路が城壁の跡地利用」という逸話はよく知られている。1529年のトルコ軍による第一次ウィーン包囲の後、より頑健な防御機能を目指してハプスブルク家が建設したウィーンの市壁は、1863年の第二次ウィーン包囲の際にその防御機能を十分に発揮し、トルコ軍の攻城戦を退けた。その後、約2世紀にわたって存在し続けた市壁は、徐々に軍事的機能を失い、19世紀半ばには産業革命期の都市発展を妨げる「障害物」と認識されるようになっていった。展示によれば、1809年のナポレオン戦争の際には、すでに進展著しい当時の火力(砲力)に対応できる力を失っていたとされる。

環状道路の撤去という「鶴の一声」を上げたのが、有名なフランツ・ヨーゼフ1世(エリーザベト皇妃の夫君)。「Es ist mein wille!」(This is my will!)という、文字通り鶴の一声で市壁の撤去と跡地の再利用が決まったのが1857年、翌58年には都市計画案の公開コンペが行われ、85作品の中から最優秀案が皇帝の上覧に供されたのが59年、そしてこの案をもとに正式な都市計画案の決定を見たのが1860年である。リング環状道路の出現が1865年なので、いかに急ピッチで開発されたかが窺える。

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1830年当時の市壁の図(上が北東)。ドナウ運河を天然の防衛線に利用しつつ、残る3方には、城壁の外側に最大幅が500m近い緩衝帯(遮蔽物の無い空間)を設け、市壁に接近しようとするトルコ軍の消耗を図った。ただし、図に見られる通り、1830年代にはすでに市壁の外側でも都市開発が進んでおり、「壁の撤去」は、都市の(外側への)発展というよりも、すでに都市内部に組み込まれつつあった市壁+緩衝帯という大規模公共用地の再開発という色彩が強かったと想像できる)

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(市壁に囲まれた市の北東部、現在のSchwedenpl.付近。1850年の銅版画。同じ市の東部、ウィーン運河隣接地域における市壁の撤去風景。1860年の写真)

さて、この「再開発」で興味深い点は、環状道路に接する内側・外側の公有地に、国会議事堂と市庁舎はさておき、膨大な文化施設を集積させた点であろう。オペラ劇場、ブルク劇場、美術史美術館、自然史博物館、楽友協会(ムジークフェライン)、市民公園(J. Straussの像で有名な)、プラッター(大観覧車)、コンチェルトハウス、ウィーン大学など、今日の「文化首都ウィーン」を支える施設が、この時期、環状道路とともに建設されていった。王家の意思の為せる技か、あるいは重工業牽引型の産業革命とは一線を画したオーストリアの経済発展ゆえかはさておき、この再開発が150年後の現在、ウィーンという都市の独自性を際立たせ、世界に例の無い「都市資源」を生み出したことは議論の余地がない。

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(1859年に、85応募作品から第一席に選ばれた都市計画案。上が南西であることに注意。現在の美術史美術館、自然史博物館が向かい合う(中央にマリア・テレジアの像がある)マリア・テレジア広場(地図の中央最上部)に博物館の計画が無いなど若干の相違はあるが、ほぼ現在の都市計画の原型といって良い。以下の図と比較するとよく分かる)

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(上図の案をもとに、1860年にウィーン市が決定した都市計画図。上が北東。マリア・テレジア広場に2つの博物館が配置されるなど、ほぼ現在の都市計画の原型となっている。西部(図の左下)の閲兵広場には、すぐ後に国会議事堂、市庁舎、ウィーン大学が配置されるよう変更された)

ちなみに、1859年のコンペ入選作、1860年の都市計画図には、それぞれ撤去された市壁(堡塁を含む)が薄く記入されており、これを見ると現在のリング環状道路の大部分が「市壁」そのものではなく、市壁の外側に広がる緩衝帯の開発であったことが分かる。市壁そのものの跡地は、リング環状道路の内側、ブリストルホテル、オペラ座、ブルク公園(モーツァルト像)、新王宮、ブルク劇場などの施設に供された。

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オペラ座のバルコニーから東を望見する。正面がホテルブリストルで、ホテルとオペラ座のファッサードを結ぶ線が旧市壁の外側にあたる。市電が走るリング環状道路は、正確にはその外側の緩衝帯である)

さて、リング環状道路には、かの有名なインペリアルホテルをはじめ、ブリストルホテルなど19世紀以来のホテルがいくつか存在する。その理由は、1873年に開催されたウィーン万博で、この時の宿泊施設としてホテルが都市計画に組み込まれたと(展示では)説明されていた。残念ながら、折からのコレラ禍により来場者数は当初の見込みを大幅に下回ったが、日本史的には岩倉遣欧使節が見学に訪れている。

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(映画「第三の男」で有名になった大観覧車は、万博終了後の1897年に、万博会場であったプラターに建設された)

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(現在のリング環状道路。黄色い「市電」は、旧市電の車両を利用した観光電車。リングを周回しながら、観光名所の説明を聴くことができる。残念ながら公共交通とは別料金なので、「市内交通一日券」等では乗車できない)

 

当日、図録を買うか否か迷って結局買わずじまい。展示は独英完全併記なのに、なぜか図録はドイツ語だけなのだ。しかし、図版や写真(とりわけ都市計画図)に惹かれ、翌日図録のみ購入に行くと、政府の偉いさんが来るとかで、テレビクルーが入口に待ち構えていた。やれやれ、前日に見ておいて良かった。図録を29ユーロで購入し、早々に退散した。