Wiener Urlaub ③ Das Rote Wien (ウィーンの休日③:赤いウィーン) 

「ウィーンと居住」というテーマを考える際、忘れることができないのは、両大戦間に数多く整備された労働者向けの公営住宅群である。その「代表作」ともいうべきKarl Marx Hof(カール・マルクス・ホフ)を見に行く。

第一次大戦の終結とハプスブルク帝国の終焉を経た1920年代のオーストリアでは社会主義勢力が台頭し、とりわけ低賃金労働者が多く居住し、先鋭的な労働運動の舞台となったウィーンは 'das rote wien(赤いウィーン)'という異名をとった。この社会主義運動の1つの成果が、膨大な公営住宅の供給である。ウィーン北部、ハイリゲンシュタットに近いカール・マルクス・ホフは、オットー・ワーグナー(世紀末ウィーンを代表する建築家である彼は、Stadtbahnの高架線と駅も設計している)の弟子にあたるカール・エーンの手による代表的な公営住宅群であり、住宅全体が1つの都市機能を持つよう設計されている。

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1926年に設計が開始されたカール・マルクス・ホフは、1930年10月12日に竣工した。竣工当時、この公営住宅は1,382戸の部屋を有し、約5,000人が居住できた。また(電気洗濯機が各戸に無かった時代)62の洗い場を持つ洗濯棟が2棟、20のバスタブと30のシャワーブースを持つバスハウスが2棟、このほか、保育園、母親ケアセンター、図書館、医院、歯科医院、薬局、そして25の消費財商店を内包する、文字通り「1つの街」であった。

これらの各種施設に加えて、日照に配慮した広い中庭を確保したこと、集約型のゴミ分別、回収ステーションを設けたこと、などは、その後の公営住宅建築に大きな影響をもたらした。

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カール・マルクス・ホフの各棟に設置されている見取り図。全長は南北1.2kmに及ぶ)

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(南北に長い団地群は、それぞれ幅の広い中庭を取り囲むようにロの字型に配置され、日当たりは非常に良い)

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(目隠しで覆われたゴミセンター(左)と、保育施設(右))

 

このカール・マルクス・ホフの旧洗濯室(現在は、各戸に電気洗濯機が配置され、その役割を終えたのであろう)の1つが、Rote Wienの博物館となっているので見学に行く。Ring strasseの150周年ということで、特別展「Die Ringstrasse des proletariats(プロレタリアートのリング環状道路)」が催されていた。

展示内容は、公営住宅における生活誌というよりも、この団地を舞台にした政治活動史の展示が主であったが、当時のウィーンでは画期的な存在であった洗濯室やバスハウスの写真もいくつか展示されていた。展示解説はすべてドイツ語だが、主要な展示内容に関する要約版の英語パンフレットが4.5ユーロで販売されており、これを頼りに展示を見て歩くことができる。

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(特別展のポスターが張られた入口)

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(展示内容は、団地内に組織された政治活動組織の記録が主体であった(左)。特別展「Die Ringstrasse des proletariats」は、リング環状道路に沿って1920~30年代に建設された公営住宅、労働者支援施設、社会福祉施設の紹介と経緯を整理したもので、この日は新聞社が取材に訪れていた(右))

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(シャワーブース(上段)、バスルーム(中下段)を備えたバスハウスの写真)

さて、こうしたバスハウスが整備されたということは、竣工当時はシャワーが各戸に整備されていなかったのか、現在ではどうなのか、公営住宅外国人労働者にも開放されていたのか、など質問は多々あったのだが、この日「店番」をしていた老婦人は英語が通じなかったため質問は断念。

しかし、1930年に竣工した公営住宅が、その内部は何回となくリフォームされているにせよ、現在なお建築ストックとして健在で、現役の公営住宅として機能している点には端倪する。日本では、戦後の1950年代半ば(昭和30年前後)に建てられた公営住宅が、軒並み「耐用年数」を超え、予算から整備戸数に至る「建て替え問題」が地方議会の頭痛の種となっている。ここでも、建物が「ストック」なのか「消耗品」なのかという差異を意識せざるをえない。

 

天気が良いので、ほど近いハイリゲンシュタットまで散歩に行く。ここはベートーヴェンゆかりの場所で、「彼が住んだ」という家だけで3軒が文化財として保存されている。ハイリゲンシュタットは、現在でこそU4線で都心まで15分足らずの「内郊外」であるが、ベートーヴェンの時代はブドウ畑が広がる近郊農村であった。佐藤春夫の「田園の憂鬱」を彷彿とさせる(かの作品のモデルは、田園都市線長津田近郊である)。

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ベートーヴェンが難聴を苦にして「遺書」を書いた家(左)。ハイリゲンシュタットの名前を一躍有名にした。右は、交響曲第9番「合唱」を書いた家。現在はホイリゲになっている)

 

ハイリゲンシュタットからは、市電D線で都心に戻る。ウィーンの市電は、運転台が一方方向にしか付いていない。このため、終着駅は例外なくループ線になっており、到着した市電は180度方向転換をして戻ってゆく。D線は、ハイリゲンシュタットから南下してリング環状道路を半周し、ベルヴェデーレ宮の横を通り、かつての南駅まで通じる「ウィーン縦貫」路線であり、結構重宝する。現在は「中央駅」整備にともない南駅が廃止されたため、終着駅は「中央駅東」というわかりにくい表記(要するに南駅の跡地)になっている。

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