Viaggio nel Costa di Darmatia ④ Split (ダルマチア海岸への旅 ④ スプリット)

コルチュラから本土側のスプリットまで、再び高速船で2時間半の旅。東西に長いコルチュラ島は、東端に近いコルチュラ(こちらは都市)のほか、バスで小一時間ほど行った西端にベッラ・ルカという港がある。ここからスプリットまで1日1便フェリーが運行されていることを前日に知ったが、接続するバスの便が悪く断念した。旅客はコルチュラから高速船に乗るし、車はバスと無関係という事だろう。

さて、都市の構造(社会的というよりも工学的に)という点で、スプリットほど変わった都市も存在しないのではなかろうか。平たく言えば、古代(4世紀)の人工地盤の上に建設された中世都市である。

都市スプリットの起源は、305年に退位するディオクレティアヌス帝の「隠居所」として、3世紀末から建設が始められた宮殿に始まる。ディオクレティアヌスは、キリスト教徒の迫害で知られる皇帝だが、ローマ帝国で自ら平和裡に譲位した最初の皇帝でもある。したがって隠居所とはいえ、その規模は220m×180mという大規模なものとなった。この宮殿の特徴は、海岸線に建設されたため、防御と通風を考慮して2層の構造を持っていたことである。要は、都市全体を「高床式」にして、2層目の人工地盤の上に宮殿の諸施設が建設された。1階部分は、その重量を支える基礎にあたり、建設当初は1層目の柱と同じ位置に2層目の柱が建っていたと推測されている。さらに、2層目の四囲には城壁が築かれた。このため、都市は約200m四方の「3階建て」となった。やれやれ、古代ローマの土木技術には溜息が出る。

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 (4世紀初頭に完成したディオクレティアヌス宮殿の想像図。海岸線に約200m四方の宮殿が、人工地盤の上に築かれ、その周囲に城壁が配されるという大規模なものであった)

 さて、この大規模な宮殿も、実質的には1世紀と使用されず、4世紀末にはすでに廃墟と化したらしい。ところが、7世紀にスラブ人がダルマチア地域に侵入した際、周辺の都市に住む住民が、ディオクレティアヌス宮殿の「城壁」を頼りに、その廃墟へと避難し、やがて城壁内に新たな都市を建設した。10世紀頃までには、宮殿2層部分にあった初期の建物は多くが取り壊され、代わりに中世都市が建設されていった。中世に建設された建物は、1層(人工地盤の基礎)部分の柱の位置など無関係に建設が進んだが、いずれも小規模であったため、豪壮な古代宮殿を支えていた人工地盤はびくともしなかったらしい。

12世紀に、スピリットはコルチュラ同様、ベネチアの支配下に入る。14世紀に入ると、ベネチアはトルコの襲撃に備えて、城壁の外側にバロック式の星型要塞を建設した。この新たな城壁の建設により、スプリットの市域はこの新たな城壁の範囲に拡大された。

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(17世紀のスプリットの都市域。トルコの襲撃も一段落し、都市域は星型城塞(赤い線)を超えて西側に拡大している。黄色い線が古代のディオクレティアヌス宮殿の範囲)

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(2層部分の宮殿を支える「基礎」として建設された1層部分の平面図(上)と、その基礎柱とは無関係に2層部分に建設された中世都市(下)。明らかに、古代の宮殿とは平面型が揃わない。要するに、地下に柱が無い場所に、どんどん建物が建設されたことになる。しかし、流石に古代宮殿を支えていた人工地盤は揺るがなかった。写真の中央に見える城壁は北の城壁。城壁の外の緑地帯は、ベネチア共和国が築いた中世の星型城塞と対応している。18世紀以降、トルコ来襲の危機が薄らいで城塞の外に都市が発展する一方、城塞の内側は19世紀に緑地となった。このあたりの経緯はウィーンと似ている)

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(現在の1層部分。基本的には古代のままで変化が無い。なまじ、これらの柱が支える人工地盤の上に、中世都市が乗ってしまったので開発のしようがない。南側の一角は、宮殿から海岸線の遊歩道に出る観光動線となっており、土産物屋が軒を連ねる。その奥に博物館もある)

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(人工地盤の構造。右下に見えるアーチが3世紀末から建設が進められた1層の基礎部分。その上に建つ建物が中世以降の建築物)

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(都市の東~北にかけては、古代の城壁(高さから言えば3層目)が良く残る。写真は東側の城壁と、東の城門にあたる「銀の門」)

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(宮殿の「南東部」は、もともとディオクレティアヌスの隠居所が置かれた、宮殿の枢要部であったが、現在はスラム化が進んでいる。観光開発という文脈上は、やがてこの地域の住民の立ち退き=ジェントリフィケーションが始まるのだろうか。対照的に「北部」では飲食店、土産物店などの観光開発が進んでいる。200m四方という空間に、都市のいろいろな側面が垣間見れると言う点で非常に面白い)

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(宮殿域のほぼ中央に聳える鐘楼上から見た南東方向。左が鉄道駅、右がフェリーターミナルで、その間に高速バスのターミナルが挟み込まれている。これほど長距離交通の接続の便が良い都市も珍しい)

夜は、ホテルのフロントに聴いて(地元の人が行く店、安くて上手い)、「観光地」である海岸線から離れたダルマチア料理屋に出かける。ホテル情報は、当たり外れがある(イタリアでは、美味しいかどうかよりも、友達や親戚が経営している店を紹介されるケースも少なくない)が、今回はあたり。地元の魚介のフェットチーネは、食べきれないほどのエビとムール貝とアサリが乗って14ユーロ。

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(ご馳走様でした)