Viaggio nel Costa di Darmatia ⑤ Trogir (ダルマチア海岸への旅 ⑤ トロギール)

スプリットが「最終目的地」の筈だったが、空路ナポリへ戻るためのスプリット空港が、スプリットではなく隣町のトロギールの近郊にあるとのこと。トロギールは、スプリットの西約25km、高速バスで40分ほどの距離になる。

トロギール旧市街は、東西400m、南北250mほどの方形をしている。ギリシャの植民都市として発達した当初は本土の一部(半島)だったが、ローマ時代に防衛上の目的で開削された人口水路によって切り離され、「島」状の囲郭都市となった。7世紀からは、スプリット同様にスラブ人の侵入から避難したサロナ人による都市建設が進められたが、その本格的な発展は13世紀にベネチアの支配下に入ってからである。ギリシャの植民都市に典型的な直交型の道路配置、ローマ時代に開削された水路(南イタリアのタラントと似ている)、ベネチア共和国による数々のロマネスク、ベネチアン・ゴシック、バロックの建築物が相俟って、これもまた世界遺産に指定されている(と、現地へ行って初めて知った)。

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トロギール旧市街の入口。手前が本土側で、旧市街との間にある水路は人工的に開削されたもの)

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(水路は、現在プレジャーボートの係留地として重宝されている。左奥はベネチア時代に設けられたサン・マルコ砦)

なにはともあれ、街で最も高い(最も大規模で、カテドラルとしての機能を持つ)サン・ローレンティウス(聖ロヴロ)教会の鐘楼に上る。コルチュラ、スプリット、トロギールと毎日のように鐘楼に上っているが、この規模の街は、鐘楼の上から眺めると最も構造が良く理解できる。

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ルネッサンス様式の教会に、ベネチアゴシック様式の塔が後から加えられた。典型的な折衷様式の聖ロヴロ教会)

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(旧市街の北東にある聖ロヴロ教会の鐘楼から見た南西方向。旧市街をほぼ対角線で望見することにある。正面の海峡は天然の水路で、正面の島は基幹産業である造船業を持つチオヴォ島)

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(チオヴォ島のドックヤード。反対側(外海側)に向けて、5万トン級の大型船を2隻同時に建造できる能力があると言われている。旧市街の向島に造船基地があるという構図は、どこか尾道因島に似ている)

トロギール文化遺産の「象徴」とされるのが、聖ロヴロ教会の正面を飾る、クロアチア人の彫刻家ラドヴァンの彫刻。ラドヴァンは、ベネチアのサン・マルコ聖堂の彫刻も手がけており、その様式は非常に似ている。

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(コルチュラとは異なり?教会正面のアダムとイブは整然と直立しているが、礼拝室の天井には意表を突かれる)

コルチュラもスプリットも然りだが、街の中には「英語」で書かれた不動産売却の看板が目立つ。ドゥブロブニク同様、不動産価格の高騰、(お金持ちの)欧米資本の流入、さらなる不動産価格の高騰(旧市民の郊外流出)というサイクルが進んでいる様に感じる。

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スプリット空港は、トロギール旧市街から東(スプリット方向)に6kmほど戻った場所にある。空港へは、スプリットへ向かう長距離バスのほか市内バスも運行している。スプリット空港は、ダルマチアの北の玄関口であり、2つの世界遺産都市が控えていることから、地元クロアチア航空のほか、西欧諸国の格安航空会社がいくつか乗り入れている。スプリット~ナポリ間も、イギリス系のEasyJetが2日に1便運行している。もともと、ロンドン~ナポリの往復便だが、間合いを利用してナポリ~スプリットで一稼ぎするらしい。

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 機窓から見たスプリット旧市街(ディオクレティアヌス宮殿)とダルマチア式海岸。後者は、飛行機から見て、初めて「ああ、やはりこう言う地形か」と納得する。往路は16時間かかったナポリ~ドゥブロブニク間、帰路はわずかに50分。

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Viaggio nel Costa di Darmatia ④ Split (ダルマチア海岸への旅 ④ スプリット)

コルチュラから本土側のスプリットまで、再び高速船で2時間半の旅。東西に長いコルチュラ島は、東端に近いコルチュラ(こちらは都市)のほか、バスで小一時間ほど行った西端にベッラ・ルカという港がある。ここからスプリットまで1日1便フェリーが運行されていることを前日に知ったが、接続するバスの便が悪く断念した。旅客はコルチュラから高速船に乗るし、車はバスと無関係という事だろう。

さて、都市の構造(社会的というよりも工学的に)という点で、スプリットほど変わった都市も存在しないのではなかろうか。平たく言えば、古代(4世紀)の人工地盤の上に建設された中世都市である。

都市スプリットの起源は、305年に退位するディオクレティアヌス帝の「隠居所」として、3世紀末から建設が始められた宮殿に始まる。ディオクレティアヌスは、キリスト教徒の迫害で知られる皇帝だが、ローマ帝国で自ら平和裡に譲位した最初の皇帝でもある。したがって隠居所とはいえ、その規模は220m×180mという大規模なものとなった。この宮殿の特徴は、海岸線に建設されたため、防御と通風を考慮して2層の構造を持っていたことである。要は、都市全体を「高床式」にして、2層目の人工地盤の上に宮殿の諸施設が建設された。1階部分は、その重量を支える基礎にあたり、建設当初は1層目の柱と同じ位置に2層目の柱が建っていたと推測されている。さらに、2層目の四囲には城壁が築かれた。このため、都市は約200m四方の「3階建て」となった。やれやれ、古代ローマの土木技術には溜息が出る。

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 (4世紀初頭に完成したディオクレティアヌス宮殿の想像図。海岸線に約200m四方の宮殿が、人工地盤の上に築かれ、その周囲に城壁が配されるという大規模なものであった)

 さて、この大規模な宮殿も、実質的には1世紀と使用されず、4世紀末にはすでに廃墟と化したらしい。ところが、7世紀にスラブ人がダルマチア地域に侵入した際、周辺の都市に住む住民が、ディオクレティアヌス宮殿の「城壁」を頼りに、その廃墟へと避難し、やがて城壁内に新たな都市を建設した。10世紀頃までには、宮殿2層部分にあった初期の建物は多くが取り壊され、代わりに中世都市が建設されていった。中世に建設された建物は、1層(人工地盤の基礎)部分の柱の位置など無関係に建設が進んだが、いずれも小規模であったため、豪壮な古代宮殿を支えていた人工地盤はびくともしなかったらしい。

12世紀に、スピリットはコルチュラ同様、ベネチアの支配下に入る。14世紀に入ると、ベネチアはトルコの襲撃に備えて、城壁の外側にバロック式の星型要塞を建設した。この新たな城壁の建設により、スプリットの市域はこの新たな城壁の範囲に拡大された。

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(17世紀のスプリットの都市域。トルコの襲撃も一段落し、都市域は星型城塞(赤い線)を超えて西側に拡大している。黄色い線が古代のディオクレティアヌス宮殿の範囲)

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(2層部分の宮殿を支える「基礎」として建設された1層部分の平面図(上)と、その基礎柱とは無関係に2層部分に建設された中世都市(下)。明らかに、古代の宮殿とは平面型が揃わない。要するに、地下に柱が無い場所に、どんどん建物が建設されたことになる。しかし、流石に古代宮殿を支えていた人工地盤は揺るがなかった。写真の中央に見える城壁は北の城壁。城壁の外の緑地帯は、ベネチア共和国が築いた中世の星型城塞と対応している。18世紀以降、トルコ来襲の危機が薄らいで城塞の外に都市が発展する一方、城塞の内側は19世紀に緑地となった。このあたりの経緯はウィーンと似ている)

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(現在の1層部分。基本的には古代のままで変化が無い。なまじ、これらの柱が支える人工地盤の上に、中世都市が乗ってしまったので開発のしようがない。南側の一角は、宮殿から海岸線の遊歩道に出る観光動線となっており、土産物屋が軒を連ねる。その奥に博物館もある)

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(人工地盤の構造。右下に見えるアーチが3世紀末から建設が進められた1層の基礎部分。その上に建つ建物が中世以降の建築物)

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(都市の東~北にかけては、古代の城壁(高さから言えば3層目)が良く残る。写真は東側の城壁と、東の城門にあたる「銀の門」)

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(宮殿の「南東部」は、もともとディオクレティアヌスの隠居所が置かれた、宮殿の枢要部であったが、現在はスラム化が進んでいる。観光開発という文脈上は、やがてこの地域の住民の立ち退き=ジェントリフィケーションが始まるのだろうか。対照的に「北部」では飲食店、土産物店などの観光開発が進んでいる。200m四方という空間に、都市のいろいろな側面が垣間見れると言う点で非常に面白い)

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(宮殿域のほぼ中央に聳える鐘楼上から見た南東方向。左が鉄道駅、右がフェリーターミナルで、その間に高速バスのターミナルが挟み込まれている。これほど長距離交通の接続の便が良い都市も珍しい)

夜は、ホテルのフロントに聴いて(地元の人が行く店、安くて上手い)、「観光地」である海岸線から離れたダルマチア料理屋に出かける。ホテル情報は、当たり外れがある(イタリアでは、美味しいかどうかよりも、友達や親戚が経営している店を紹介されるケースも少なくない)が、今回はあたり。地元の魚介のフェットチーネは、食べきれないほどのエビとムール貝とアサリが乗って14ユーロ。

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(ご馳走様でした)

 

Viaggio nel Costa di Darmatia ③ Korcula (ダルマチア海岸への旅 ③ コルチュラ)

ドゥブロブニクから高速船でコルチュラへ向かう。本来は鈍足のフェリーに乗り、甲板からダルマチア式海岸を眺める「クルーズ」と洒落込みたいところだったが、ドゥブロブニクからコルチュラを経てスプリットへ向かうダルマチア縦断フェリーは、残念なことに2014年度で廃止されていた。沿岸の高速道路網が整備され、旅客は高速バスか高速船、車もフェリーから高速道路へという棲み分けが進んだためであろう。高速船は、入港時以外はデッキに上がれないのが窮屈だが、背に腹は代えられない。ドゥブロブニクからコルチュラまでの約70kmを、1カ所寄港してなお2時間弱で結ぶのだから、その速度は流石である。

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(キャビンから眺めたダルマチア式海岸。スピードが上がるにつれて波しぶきが窓をたたくようになり、風景を楽しむことが難しくなる点が高速船の弱点)

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(コルチュラへ入港した高速船。写真の背後はダルマチアの海岸線(陸地)で、雨が降っているのか虹が出ていた)

コルチュラは、海岸線と並行に浮かぶコルチュラ島の中心都市である。とはいえ人口は5,000人強に過ぎない。コルチュラは13世紀にベネチアによって開発された。避難港とも海賊対策とも言われてるが、海洋国家ベネチアにとって、地中海との中間点に寄港地を持つことは重要であったろう。旧市街は、東西200m、南北250mほどの小さな半島の上に開発された。海に囲まれた三方に城壁を廻らし、唯一の弱点である半島基部には濠を設けて防御態勢を固めている。現在、東側の城壁は撤去されて、レストランのテラスが並ぶ遊歩道となっている。

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(半島を開発したコルチュラ旧市街。狭い水道の先はオレビッチの街で、その後ろに聳える岩山はイリア山)

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(コルチュラとオレビッチの間はフェリーで15分。ドゥブロブニクからコルチュラ行きの高速バスが出ており、どうやって行くのかと思えば、バスでオレビッチまで運び、そこからフェリーに乗り換える(フェリー料金込みの高速バス運賃)という運行であった)

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(コルチュラの日没。ご多分に漏れず、美しい旧市街を持つコルチュラも近年はマリンリゾートとしての開発が進んでいる。ヨットを浮かべているのは、圧倒的にドイツ人が多いそうである)

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ベネチアによって建設された街であり、文化的にもベネチアの影響が強い。半島中央に聳えるカテドラルは、ベネチア守護聖人「聖マルコ」にちなんだ聖マルコ聖堂であり、そのファサードを飾る彫刻もまたベネチア風である。とはいえ、正面入口の両サイドを飾るアダム(右)とイブ(左)のデザインは何なのだろう・・)

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(地元の伝説では、(ベネチア人とされている)かのマルコ・ポーロは、実はコルチュラの出身であるという。その「生家」は記念館になっているが、さてベネチアはこれを認めているのだろうか)

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(半島東側の城壁は現在撤去され、その跡地はレストランのテラスが軒を連ねる遊歩道になっている。ここでもまた、ドイツ語が頻々と聞こえてくる)

Viaggio nel Costa di Darmatia ② Mostar (ダルマチア海岸への旅 ② モスタル)

ドゥブロブニクから、日帰りのツアーを探してモスタルへ出かける。モスタルはドゥブロブニクからバスで2時間ほど、ネレトヴァ川の流域に発達した古い渡津集落であり、隣国のボスニア・ヘルツェゴビナ領に含まれる。

昔(歳が知れるが)「ネレトバの戦い」(ユーゴスラヴィア映画!)という戦争映画があった。ネレトバ川を挟んでドイツ軍とソ連・ユーゴパルチザン連合軍が対峙する中、突如として北岸のドイツ軍が機甲師団を押し立てて攻勢に転じ、多くのソ連軍や市民が北岸に取り残されるという設定で話は始まる。映画では、チトー率いるユーゴパルチザンが縦横無尽の働きを見せ、北岸で決戦を挑むと見せかけて時間を稼ぎ、市民とソ連軍を南岸に避難させる。最後は、大活躍のパルチザン部隊も南岸に戻り、間一髪のタイミングで「唯一の橋」を爆破してめでたしめでたしという、まことに都合良くできたお話であった(とおぼろげに記憶している。最近DVDが発売されたらしい)。

この映画は、様々な情報を統合すると完全なフィクションで、この物語の下敷きとなるような史実は無いらしい(子供心にも映画のドイツ軍は間抜けだと思った)。しかしモスタルは、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の折、軍事上は何の意味も持たない古い橋梁を現実に爆破し、その「愚行」ゆえに名前が記憶されてしまった都市である。また、内戦後、掛け替えられた橋が例外的に世界遺産に登録されたことでも知られている。

ドゥブロブニクには、数多くの旅行代理店がひしめき、その多くがツアーバスを仕立てた日帰り~1泊程度のツアーを提供している。出発日が迫ると余席のあるツアーはディスカウントされ易い。当方も「翌日出発、定価34ユーロ」のツアーに28ユーロで申し込んだ。バスは20人乗りのマイクロで、ディスカウントの甲斐があったか満席であった。日本人(自分)、中国人のカップル、ニュージーランドの老夫婦を除く15人は皆ヨーロッパからで、イギリス人が10人と群を抜いていた。ドゥブロブニクからモスタルを往復する間に、トイレ休憩を兼ねて往復1つづつの小都市を引っかける。また、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ国境を2回(往復4回、それぞれ入国・出国を行うため8回パスポートを出す)越えるため、この部分の時間も馬鹿にならない。朝7時半に出発し、往路4時間半、復路4時間、モスタル滞在3時間で、夜7時にドゥブロブニクへ帰着するツアーとなった。

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(ネレトヴァ川を越える。ツアーバスは幹線道路ではなく、ネレトヴァ川に沿った裏道を東上し、小さな国境検問所を越える。パスポートチェックの待ち時間を短縮するためだそうである)

 モスタルは、「橋(most)の守人」という意味のボスニア語を語源としている。中央が、トルコ占領期の1557年~66年に建設された「古い橋(Stari Most)」である。モスタルでは、南流するネレトヴァ川を挟んで、東岸(下の写真の左側)にムスリム西岸(右側)にカトリック教徒という棲み分けが行われてきた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦が勃発した1992年当時、街にはStari Most以外にも数本の鉄橋が架けられており、とりわけ車の通行ができないStari Mostの軍事的意味は皆無に等しかった。しかし、1993年11月に橋は爆破された。

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(北側から見下ろすStari Most。後方には、鉄橋Lucki Mostが見える。こうした鉄橋が前後に数本あったにもかかわらず、Stari Mostは破壊された)

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(破壊前のStari Most(1970年代:写真は橋の東詰にある博物館の展示)と現況。橋ははいわゆるロマネスク風のアーチで支える構造であるが、アーチの上部が非常に薄く、シャープな外観を持つ。1567年当時、橋の強度を危ぶんだスルタンに対して、設計技師は「橋が落ちたら首を落として良い」と請け負ったという逸話が残る。当時のトルコの技術水準の高さを示す文化財であった)

さて、Stari Mostは、内線後の2004年にユネスコ資金援助によって同じ工法、素材で再建され、翌2005年には、現代に再建された建築物としては例外的に世界遺産に指定された。流石に、橋そのものの単独指定は物議を醸したため、「橋を含む周辺地域」という一体指定の形を採っている。ドゥブロブニクの「間一髪で護られた世界遺産」とは別の角度から、戦争と文化遺産との関係を問いかけるモニュメントとなっている。

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(橋の東側にある世界遺産指定の銘板。「モスタル旧市街の「古橋」地域」が指定対象とされている.上から順に、ボスニア語、クロアチア語セルビア語、英語。ツアーガイド氏は「ボスニア語とクロアチア語は75%は同じで、それぞれが母語で話しても通じる」と語っていたが、たしかに上の2列は同じである)

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ムスリムが多いネレトヴァ川の東岸地域の新旧。現在は土産物街になっているが、歴史的には繊維や木工などの生活必需品を扱う小さな手工業の工房が集まっていた。博物館の展示に従えば、Stari Mostは、16世紀まで「独立」していた2つの地域を結ぶことで、工業(東岸)と農業(西岸)の市場圏を対岸に拡大することを可能にし、地域の経済発展に寄与した、とある。そのような歴史が、内戦においては「破壊の口実」とされたのかも知れない)

 

おまけ。ドゥブロブニク 旧港の夜。集会中でしょうか?

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Viaggio nel Costa di Darmatia ① Dubrovnik (ダルマチア海岸への旅 ① ドゥブロブニク)

ナポリを15時半に出た高速バスで、バーリ港までほぼ3時間。バーリ港を22時に出航したフェリーは、ドゥブロブニク郊外のグルージュ港へ朝8時に到着する。乗り継ぎ時間を含めても存外早いものだと思う。

クロアチアはシェンゲン条約国ではないため、バーリで出国審査、ドゥブロブニクで入国審査を受ける。羽田の再国際化以来、欧州便は羽田空港からの発着枠を持つ「ANA/ルフトハンザ」か「JAL/エールフランス」ばかり利用してきたため、イタリアへ入国する前にシェンゲン条約国で入国審査を受けてしまう。実に、今回捺印されたバーリ港の出国印が、2008年以来使ってきたパスポートの記念すべき「イタリア入管初スタンプ」となる。

受験地理ではお馴染み、アドリア海東岸の「ダルマチア式海岸」。海岸線と並行する数列の山脈が沈水することで形成された独特の海岸地形だが、大規模な地形のため、船で航行している分には「海峡か広い水道」という印象が強い。しかし、外側の島列を越えて「内海側」に入ると、波は格段におさまり、湖のように穏やかな海面に変わる。その一方で偏西風の影響下にあるため、夏でも常に適当な西風が吹く。穏やかな海と適量の風に恵まれたダルマチア地方の港湾都市は、かつての水産都市や工業都市からヨットを中心とするマリンリゾートへの転換を競っている。

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(油を流したような内海を進むバーリ~ドゥブロブニク間のフェリー。右側のプレジャーボートが集まる港湾の上の斜面は、長期滞在者用の貸別荘やコンドミニアムが拡がっている)

さて、旅の振り出しは、あまりに有名なドゥブロブニク旧市街。アドリア海の景観を代表するオレンジ色の屋根と、ほぼ完璧に残された城壁との組み合わせは、上から眺めるに限る。とりわけ、海に開いた立派な城門を持つ東側からの景観が、個人的には一番気に入っている。

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(城壁からは、アドリア海の都市らしい、オレンジ色の屋根と青い海のコントラストを楽しむことができる)

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(東側から望見するドゥブロブニク旧市街)

この旧市街は、1979年に早々と世界遺産に登録されている。1972年のユネスコ世界遺産条約に基づく第1号の指定が1978年であるから、ドゥブロブニクは文句なく最初期に指定されたことになる。しかし、1991年~1995年にかけてのクロアチア独立戦争の際、ダルマチア地方の拠点都市として(独立を阻止しようとした)旧ユーゴ軍の攻撃を受け、一旦は危機遺産に登録された経緯を持つ(1994年に危機遺産解除)。

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 (ドゥブロブニク旧市街の「入口」にあたる3つの城門には、いずれも「戦災」を記録した平面図が掲げられ、観光ガイドが例外なく危機遺産指定の説明を行う)

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(▲が空爆による屋根への直撃弾、△が榴弾(陸上からの砲撃)による被害、オレンジ色の建物は焼失した歴史的建築物を示す。)

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(展望台として有名なスルジ山にある独立戦争博物館には、城門の図と対応させた当時の航空写真が展示されている。屋根が穴だらけになっていることがよく分かる。番号は、周囲の展示写真の撮影位置を示すもの)

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空爆を受けて炎上する91年当時の目抜き通り「プラツァ通り」。右は現在の姿で、炎上していたアーチ状の入口を持つ左の建物は土産物屋になっている。写真は、旧市街の旧総督邸にある歴史文化博物館の展示)

独立戦争当時、ドゥブロブニクの若い男性は皆最前線で戦ったため、空襲からの防衛は、予備役の警察官が指揮する中高年男性や女性であった。このことは、街に対する市民の一体感やプライドを醸成し、被害を最小限に留め得た旧市街の「観光資源」としての価値を高めた。ただ、皮肉なことに(なのかな?)、国際観光地ドゥブロブニクの誕生は、不動産の観光利用とそれによる地価高騰を招き、旧住民の多くは旧市街を去って周辺の新市街に移り住むようになった。実際、旧市街を歩くと、教会や邸宅など文化財として保全・公開されている建物以外は、ほぼ例外なく飲食店、観光客向けの物販店、土産物店、そしてプライベートルーム(民家の一室を観光客の宿泊に提供する施設、多くは全室がプライベートルームとなり、大家は旧市街の外に住んでいるケースが多い)や観光業などのサービス業に換わっている。これほど「生活の匂い」がしない旧市街も珍しい。身も蓋もない言い方かも知れないが、まさにテーマパーク化した中世都市である。2泊したプライベートルームもまた、英語のできる若いアルバイトの管理人が現場を仕切っており(彼はお金を貯めてロンドンで経済学を勉強したいそうである)、 彼によれば元々の「住民」であった大家一家は、やはり郊外に移り住んでいる。

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 (街の守護聖人「聖ヴラホ」の名を冠する聖ヴラホ教会のファサード独立戦争中は、市民によってファサードの彫刻を保護するバリケードが設けられた。左の写真は上と同じく歴史文化博物館の展示)

現状のドゥブロブニクをどう評価すべきかは難しい。少なくとも土地や建物の所有者の視点に立てば、命懸けで都市を護ったことが、資産価値の向上と新たな収益源の獲得に結びついたと評価することもできる。あるいは、急騰する固定資産税を払うために、収益性の高い観光産業に舵を切ったという人も少なくないだろう。しかし賃貸生活者の多くは、家賃の高騰に直面せざるを得ず、否応なく街を後にした筈である。

昼間の街で、ほとんど感じることがなかった「住民の結びつき」を垣間見たのは、夜に上記の総督邸で開催されたドゥブロブニク交響楽団定期演奏会である(狙って行った訳ではない。これを狙って行くようではもはやビョーキである)。演奏会は、地元の人が7割、観光客が3割という所だろうか。総督邸の中庭に設えられた会場は、座席数200たらずと小規模なことも手伝って、休憩時間など「ちょっとした街の社交場」の感を呈していた。そしてコンサートの終了後、着飾った人々の多くは城門を後にして家路についたのである。

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Il giorno feriale di Napoli (ナポリの日常)

ナポリ東洋大学の地理学教室を訪れる。地理学科は人文学部に属しており、初めに人文学部長を表敬訪問。例の如くノートPCを使って日本の地方都市の事例をいくつか紹介し、イタリアとの比較の視点を紹介する。一段落して、ナポリのどこが面白いかという話になり、そこからお互いが「ご近所」であることを知る。徒歩5分くらいの距離である。

次いで地理学教室で、ナポリの下町の再開発を研究しているF先生と懇談。9月1日に巡検をやるからおいでよ、という話になる。うーん、すでにベネチアに移動しているタイミングだが、この巡検は面白そうなので、頑張って特急で往復することを画策。この日は、商業地理学が専門のA先生は他所で講義のため会えなかったが、7月上旬にA先生が発表する学内研究会にご招待いただく。

やれやれ、肩の荷が下りた気分で、ナポリ港からサンタルチアを経て、ボメロまで約200mを上る散歩に出かける。

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(この時期のナポリ港には、毎日のように大型クルーズ船が入港するが、2隻並んでいるのは珍しい。左がアイーダ・ブルー(7万トン)、右は現行のクイーン・エリザベスより大きい9万1000トンのセレブレティ・インイフィニティ。巨大なビルが建った様な景観である)

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(ボメロへの登りは、いつものvia Petraio(ペトライオ通り)。階段で子猫のお出迎えを受ける。いつもここの塀の上からナポリ湾を眺めている雉ネコに似ているが、親子かしらん)

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ナポリ東洋大学訪問と長い散歩で疲れたので、夕食はテイクアウトのピザ。アパートの筋向かいにあるトラットリア兼ピッツェリアのテイクアウトだが、なかなか美味しく、いつも近所の人が4箱、5箱とホームパーティ用?に買っていくが、これまで食べたことがなかった。件の学部長先生もお薦めなので今晩トライ。この巨大なマルゲリータが、箱代込みでたった3ユーロ50セント。東京なら、さていくらだろう。味の方も申し分なし)

 

今、イタリアはカ ターニアのサッカーチームの八百長問題で持ちきり。セリエBで調子の出ないカターニアが、セリエC転落の危機を回避するため「星を買った」という事らしい が、社長をはじめ幹部が相次いで逮捕され、イタリアのニュースは連日この話題を流している。エトナ山の溶岩でこしらえ、カターニア大聖堂の前に建つ「再建の象徴」の象がチームのシンボルなのだが・・

Catania (カターニア) - Dov'e il centro urbano?

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(5月にカターニアで撮影した渦中のチームのエンブレム)

 

明日、船でアドリア海を渡る予定。週末はクロアチアです。

 

Le quaranta giornate di Napoli (ナポリの40日間)

形式上は9月末まで残されている在外研究期間だが、9月上旬から4ヶ月間ベネチアの大学に客員教授として派遣されるため、労働ヴィザ取得など一連の準備が必要になる。このため7月末にナポリを引き払い、一時帰国することが決まる。事実上これで「自由な研究期間」が終了することとなり、ナポリに拠点を置く生活もあと40日足らず。「勉強どころじゃない(?)ので、行こうと思っていたところに行くぞ」とは、在外研究の先達の御言葉であるが、まさしく同じ気分になっている。とはいえ、来週はナポリ東洋大学地理学教室でのディスカッションも控えており、その準備で気ぜわしい。

さて今回のタイトル、気づかれた人もいるかも知れないが、Le quattoro giornate di Napoli(ナポリの4日間)のパクリである。「ナポリの4日間」とは、第二次世界大戦中の1943年9月27日から9月30日までの4日間にわたり、ナポリ市民がドイツ軍相手にぶちかました市民蜂起のことで、1962年には映画にもなっている(日本でも上映されたらしいが、ビデオ化、DVD化には至っていない)。

Le quattro giornate di Napoli - Wikipediaウィキペディア・イタリア語版)

Four days of Naples - Wikipedia, the free encyclopediaウィキペディア英語版

 多少水を差すような言い方になるが、1943年9月3日のイタリア本土への連合軍上陸と、9月8日のイタリア降伏(新政府は、連合軍の支配地域となったブリンディジに樹立)を受けて、イタリアの大部分を実効支配するドイツ軍の中で防衛線をめぐる意見対立が生じた。結局、海への開口部が広く防御に適さないナポリから撤退し、ナポリ・ローマ間の山岳地帯を防衛線にと提案したロンメル元帥の意見が採用され、ナポリを占領するドイツ機甲師団は戦略的撤退の準備にかかっていた。「ナポリの4日間」はこうした状況下で発生している。

市民の武装蜂起の契機は、ドイツ軍による市民の無差別逮捕(一部では「処刑」との記録もある)であり、武装蜂起の結果、4日間で数百人の市民が犠牲となった。しかし、ドイツ軍が本気でナポリを「防衛」する気であれば、市民の犠牲者数ははるかに膨れあがったであろう。「4日間」で戦闘が終結した理由も、市民の蜂起にドイツ軍が押されたというよりは、サレルノに上陸した英米連合軍との直接対決を避けるためであり、事実、ドイツ軍撤退の翌日(10月1日)には、早くもイギリス軍の先鋒部隊がナポリ入城を果たしている。

とはいえ、あえなくドイツ軍に武装解除されたイタリア正規軍に代わり、市民が武装蜂起して、占領軍であるドイツ軍を「退けた」という事実は、ナポリ近現代史における輝かしいエポックであり、戦後、蜂起の犠牲者全員にイタリア政府から金メダル(medaglie d'Oro)が授与されている。ちなみに、最初に武力衝突が起きた場所は、住宅地Vomeroに近い陸上競技場前であるが、これはドイツ軍が競技場を逮捕した市民の仮収容所に使っていたためである。

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ナポリの地下鉄1号線の路線図。Vomeroの中心駅Vanvitelliを挟んで、陸上競技場に接した駅がQuattro Giornate、反対側がMedaglie d'Oroで、それぞれ「ナポリの4日間」の歴史を駅名に留めている)

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(Quattro Giornate駅の入口。右側が現在も使われている陸上競技場のスタンドの一部。正面の白い建物が憲兵隊(Carabniere)で、壁に武力衝突の犠牲者を追悼する記念碑が設えられている)

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憲兵隊の建物にある記念碑。モニュメントは機関銃である)

 

さて、ダウンタウンでは大きな「Z字」を描いた地下鉄1号線は、上図の通り、続くVomeroで再びループを描く。これは、標高200mの丘の上にあるVanvitelliまでの高度を稼ぐためである。ちなみに、私の最寄り駅は2駅手前のSalvator Rosaで標高は140m程度であるから、ここからさらに60m上がることになる。Salvator RosaからVanvitelliまでの直線距離が約1kmなので、平均勾配は60/1000で碓氷峠(66.7/1000)並みになる。さすがに「地下鉄の直登」は難しい勾配であろう。お陰で、Salvator Rosa駅近くに住む私は、3駅先のMedaglie d'Oroの駅前を横切って2駅先のVanvitelliへ行くという、不思議な散歩をしている。