Viaggio nell' Inghilterra ⑤ Il patrimonio della rivoluzione industriale (イギリスへの旅 ⑤ 産業革命遺産)
リバプール空港の入国審査は、久しぶりに「英会話の勉強」程度に長い審査だった。イタリアから、イタリアの滞在ヴィザを持つ日本人が、ロンドンではなくリバプールに降り立つという状況が珍しかったのか(怪しかったのか、興味本位なのか)、イギリスでの滞在目的から始まって、滞在予定期間、滞在都市、イタリアで何を勉強しているのか、と質問が続いた。滞在目的はもちろん「観光」で押し通したのだが、滞在都市を「リバプール、マンチェスター、バーミンガム」と話した所で、「具体的に何を観光するのか」と念押しの質問が続いた。都市の再開発と都市政策との云々・・はまた面倒を起こしそうなので、「産業革命の遺産を見学に来ました!」と明るく答えると、入管のご婦人は、「産業革命の遺産は沢山あるが、どのような遺産を見たいのか?」と続いた。「えーと、マンチェスターとリバプール間は1830年に世界初の営業鉄道が開通しました。駅は博物館になっているはずです。マンチェスターはBlack Countriesを支えた運河網が保存されています。私は地理を勉強しているので、個々の工場施設のみならず、都市間を結ぶネットワークに興味があります(not only~but alsoは重要です)」。これでようやく無罪放免。
どこぞの国と同様、イギリスでも産業革命遺産は都市ツーリズムの1つの資源となっている。しかも当地は産業革命のメッカ、中でもマンチェスターとバーミンガムは18世紀~19世紀の栄光を物語る建物、遺物に事欠かない。ということで、いくつかの博物館を見学してきました。
マンチェスターの白眉は、旧リバプール&マンチェスター鉄道の駅施設をリノベーションした科学産業博物館。産業革命当時の機械類が動かせる状態で保存されており、蒸気機関車や力織機など「世界史の教科書」でお目にかかった機械が目の前で動くところがミソ。
(マンチェスターの科学産業博物館。旧リバプール&マンチェスター鉄道のマンチェスター・リバプール・ロード駅と構内の倉庫施設を改装している)
(博物館内では30分刻みで、さまざまなデモンストレーションが行われていく。このデモンストレーションは、19世紀初頭の機械を用いた綿花~綿糸~綿布という一貫工程の説明)
(リバプール・ロード駅の本屋建物。プラットホームと線路のほか、一等客車の出札口が当時のまま保存され、他の部屋は博物館の展示室に利用されている)
(1830年の開業時に、有名なスティーブンソンのロケット号(旅客用)とともにリバプール&マンチェスター鉄道の貨物輸送を支えたプラネット号のレプリカ。貨物積載用の引上げ線で「お客」を乗せ、保存されている旧リバプール&マンチェスター鉄道の線路を500mほど往復する。レプリカとは言えメカニズムは本物で、立派に釜をたいて走る。旧線路は現在の本線となお繋がっており、その直前まで運行するため、運が良いと現在のリバプール行特急とすれ違う)
バーミンガム運河は、現在もその大部分が水路として残され、いわゆるウォーターフロントの再開発地として人気を集めている。都心に近い再開発地域から工場の廃墟が残るプチ郊外まで、市営の観光ボートが周遊している。
(市営の観光ボートで周遊した郊外の運河と工場跡地(上)。バーミンガム運河(この運河に限らないのかも知れないが)には、ループと呼ばれる迂回路がいくつも開削されている(地図・左下。観光ボートの周遊コースを示す)。このループの目的は、産業の発展で増加した水上交通を捌くだけでなく、新しい運河を開削することで工場用地を増やし、この用地を工業資本家に売却することで、運河会社が開削資金を調達したらしい。現在の鉄道会社と郊外住宅地の関係と同じ方程式である。現在は、プレジャーボート(有名なナローボート)で行き来する観光客も増えている(右下))
ニューカッスルから1時間ほど南下すると、バイキング侵攻以来の歴史を持つヨークがある。ヨークはイギリスの国立鉄道博物館で有名。3大人気の車両は、スティーブンソンのロケット号(レプリカ)、蒸気機関車の世界最高速度記録202km/hを持つマラート号、そしてロンドン~エジンバラ間の幹線輸送を支えたフライング・スコッツマン号だが、フライング・スコッツマン号は静態保存から動態保存に転換するため入場中で展示はなし。
(ヨークの旧機関庫を利用した国立鉄道博物館の正門)
(ターンテーブル上のロケット号のレプリカ。ここはいつも人が絶えない)
(左は蒸気機関車の世界最高速記録を持つマラート号、日本の新幹線0系も展示されている。ただ、中で流されているJR東海制作のプロモーションVTRは、ちょっと古くなって残念(300系のぞみが最新鋭だった時代の映像である))
イギリスの国立博物館は、ロンドンの大英博物館やナショナル・ギャラリーも含め、原則入場無料。ただし「推奨3ポンド」の寄付を歓迎しています。でも3ポンド以上は十分に楽しみました。
おまけ
マンチェスターの再開発地域に1996年に建設されたコンサートホール・Bridgewater Hallは、マンチェスターが誇るハレ管弦楽団の本拠地。なにげにホールの前を通ったら、楽団の中興の祖である指揮者ジョン・バルビローリの胸像が建っていて嬉しくなる。彼とハレ管弦楽団のコンビで録音された曲はあまた残されているが、とりわけシベリウスの全集とディーリアスの管弦楽曲集は昔からの愛聴盤。
Viaggio nell' Inghilterra ④ Lóndra e Parigi (イギリスへの旅 ④ 倫敦・巴里)
ニューカッスルから、南イングランドに飛び、サウザンプトン(タイタニックの出港地)、ブライトンを経てロンドンに入る。今回、ロンドンは1日のみ。日曜日にぶつかり、お役所も休みなので、書店で資料収集をした後はテムズ川添いをぶらぶら歩き。久しぶりにドックランド(現在はカナルワーフの方が通りが良い)の再開発地域の変貌を見たかったが、手前のロンドン橋付近で雨足が強くなり撤退。イギリス最後の夜は印度料理。
(オリンピック以降もテムズ川流域の変貌は進んでいる。昔はビッグベンが偉容を誇っていたが、今は背景の一部に埋もれつつある)
(今回見たかった場所の1つ。1830年に建設された閉鎖型ドックを再開発したHAY'S GALLERIA。場所はドックランドより上流で、ちょうどロンドン塔のお向かいくらい。1830年は、スティーブンソンの開発した蒸気機関車ロケット号が、リバプール・マンチェスター間の営業運転を始めた年でもある。イギリスの産業革命もいよいよ「発明」から「実用」へという最盛期を迎えていたということだろう)
ロンドン・パリ間は(まだ乗ったことのなかった)ユーロスターに乗車する。実乗車時間2時間半(便によって時間は多少前後する)で都心を結ぶサービスは、飛行機に十分対抗可能可能。私のような「物見遊山」組も含め、ほぼ満席であった。
(ロンドン側の起点は、ハリーポッターでお馴染みのキングス・クロス駅と、西海岸へ向かう列車が多いユーストン駅に挟まれたセント・パンクラス駅。現在も中距離用の列車が利用しており、パスポートコントロールのあるユーロスターは、ガラスのフェンスで覆われた2階の特設ホームに出入りする)
(飛行機と同様、プラットホーム下のゲートで、チェックインとパスポートコントロールがある。ここでフランスの入国審査まで行うため、フランスの「陸路」での入国スタンプがロンドンで押印される。妖怪はんこ爺、喜ぶ)
パリでは、ラ・デファンスの開発公社で資料収集をと考えていたら、当日(7月14日)は革命記念日(日本名パリ祭)でお休みだった。予定が狂うが、15日に何とか訪問。
(高さ制限の厳しいパリ旧市街に代わり、高層建築物が建ち並び、多国籍企業の本社・支社機能が集中するラ・デファンス(la Defense)地区。中央の新凱旋門(Grande Arche de la Defense)は、ノートルダム寺院がすっぽり入る空洞を持つが、これはれっきとしたオフィスビルである)
(新凱旋門と「対向」する凱旋門を、ラ・デファンス側から望む)
(革命記念日はバスチーユ牢獄襲撃の日(7月14日)。不覚にもパリに着くまで忘れていた。午前中は軍事パレード、夜はエッフェル塔周辺で花火が上がる。もちろん祝日)
おまけ
パリの地下鉄に掲示されている、国際気候変動会議(2015年秋パリ開催)支援のWWFポスターがすごい。これからの都市交通はスケボーとチャリンコか。
(ドラクロワもびっくり。オリジナルはこちら↓)
Viaggio nell' Inghilterra ③ Newcastle (イギリスへの旅 ③ ニューカッスル)
ニューカッスルは、広域調整機能の喪失が中心市街地に近接するEnterprise Zone(主に工場跡地)への大型商業施設の建設を誘導した典型例であろう。ニューカッスルはタイン(Tyne)川の北岸の台地上に広がる古代ローマ起源の古い都市であり、タイン川を挟んで南岸のゲーツヘッド市と対向している。1985年までは、両市を含む広域調整機能(Tyne & Wear Metripolitan Unit)が機能し、無秩序な開発が抑制されていたが、サッチャー政権下の規制緩和で1986年にこのUnitが廃止され、同年、ゲーツヘッド市のEnterprise Zoneに12万㎡の郊外型S.C.(Metro Centre)が進出した。
Metro Centreはニューカッスルの中心市街地からバスで20分程度、当時のニューカッスルの中心市街地には、1976年に建設されたEldon Square Shopping Centre(7.5万㎡)があったのみであるから、ニューカッスル側の危機意識は高まった。広域調整機能を持たない日本でも、大店法あるいはまちづくり3法(旧法)の時代に、商業調整が面倒な中心市を避けて、調整機能が及ばない隣接自治体の行政界すれすれに大型S.C.を建設する傾向が見られたが、状況はこれと限りなく近い。
ニューカッスル市は、Eldon Square Shopping Centreの段階的増床、大規模駐車場の整備、Eldonを挟んでLRT駅とバスターミナルとを結ぶノーザンバーランド・ストリートの歩行者道路化などを進め、タイン川を挟んだ消費争奪に対抗している。
(1986年に進出した郊外型全天候モールのMetro Centre。現在では16万㎡まで増床され、ニューカッスル中心市街地のEldon Squareと重複するテナントも多い。上の写真では規模がわかりにくいが、建設中の下の航空写真を見ると、12万㎡(当時)の規模の大きさが実感できる。左下の写真は、開業30年を記念して、センター通路で行われていた写真展の掲示写真)
(2010年に増床を終えたニューカッスル中心市街地のEldon Square(上)。郊外と都心を結ぶLRT(都心部は地下鉄)とノーザンバーランド・ストリート(下)。中心核の創出、LRTによる公共交通機関の整備、歩行者動線の確保という整備メニューは、マンチェスター、バーミンガムと似ている)
さて、イギリスの都市商業政策はクリスタラーの中心地理論の理念に近く、伝統的に、中心市街地の高次商業核の整備とともに、住宅地域の近隣型商業核の整備・維持にも力を注いできた。供給地の郊外化は、ご多分に漏れず買回り品のみならず最寄品でも進行している。しかし、郊外型S.C.に負けて近隣型の商業施設(商店街、小型スーパー)が衰退した場合、所得による居住地分化(segregation)が進んでいるイギリスでは、低所得層の集住地域を中心に深刻な「消費アクセス困難」(food desert)問題が進行しやすい。このためニューカッスルでも、低所得層の比率が高い市の東部(Walker地区)を中心に、自家用車を使わずに徒歩でアクセス可能な近隣型商業集積の維持に注力している。
(現在、ニューカッスル郊外で最も勢いがある(と図書館で紹介された)Kingston Court。24時間営業の大型スーパーTescoを核とする最寄品ゾーン、百貨店Marks & Spencerを核とする買回り品ゾーンなど、4つのブロックからなる郊外型S.C.。LRTのKingston Park駅からも近く、公共交通利用でも買い物に来れるのがミソ)
(Kingston ParkからLRTで3駅のGosforth Southにほど近いGosforth S.C.(上)。1980年に近隣型のS.C.として新設されたが、周辺の商圏は自家用車保有率の高い中産階級が主体であり(左下)、S.C.の空洞化が進んでいる(下右)。
(市の東部にあるWalker, Walkerbridge地区の商店街Shields Road(上)。1990年代までは衰退が著しかったそうだが、周辺の商圏は、失業率30%以上、公営住宅供給比率50%以上、自家用車保有率30%未満という厳しい地域(左下)。政策的に商店街の入口にディスカウントスーパー(Morrisons:右下)を導入するなど商店街機能のてこ入れを図り、food desertの阻止に努めている)
おまけ
ニューカッスルは、古代ローマの北限に近い。良くここまで来たという気がする。現在のニューカッスルには2カ所、北方からの侵入を防ぐ「ハドリアヌスの城壁」が残されている。現在、城壁の内側はチャイナタウン。古代の壁と城門のミスマッチがまた何とも言えない。
(夕食は海鮮炒麺をいただきました。値段が高い割に味がいまいちな(個人的感想です)イギリスでは、エスニックタウンは夕食に欠かせない)
Viaggio nell' Inghilterra ② Birmingham (イギリスへの旅 ② バーミンガム)
1979年に成立したサッチャー政権の「新自由主義的」な商業政策は、衰退する工業地域の構造転換を目指していたとする見解が一般的である。このためサッチャー政権は、(大型店に抑制的な)地方政府の意思決定の上位に(開発主義的な)中央政府の判断を置き、都市間競争を抑制しがちな商業の広域調整機能を制限するとともに、Enterprise Zoneの概念を導入した。具体的には、産業衰退地域の土地利用制限を緩和し、成長(が期待できる)産業分野への用途転換を促進する政策である。これにより、工業用地・工場跡地への大型商業施設の建設が容易となった。
この政策転換の典型例となったのが、イギリス第二の都市バーミンガムである。バーミンガムは、郊外の工場用地転換のみならず、その後の大規模な都心再開発に対しても賛否それぞれの立場から数多くの研究が蓄積されている。
工業都市バーミンガムは、主力産業であった自動車産業の衰退(ジャガー、ローバー)もあり、1971年から1987年までの17年間に、47%の第二次産業雇用が消失する危機的な事態を迎えていた(伊東理,2011)。こうした中、1985年には、Enterprise Zoneに指定された市の西方約10kmのメリーヒル(Mellyhill)に、15万㎡という大規模な郊外型ショッピングセンター(Mellyhill Shopping Centre)が開発された。しかし、この開発は中心市街地の商業を著しく地盤沈下させる。当時、市の中心部には老朽化した3万㎡のショッピングセンターといくつかの専門店があるのみで、当然の帰結と言えただろう。
(現在も高い集客力を持つMellyhill S.C.。正面からの写真では把握しづらいが、下の地図を見れば、その奥行き感が理解できる)
(Google MapによるMellyhill S.C.の周辺図)
これに対して、バーミンガム市当局は、バーミンガムの中心市街地、約800ha(ざっと半径1.6kmの円に入る範囲)を7つの地域(Quarter)に区分し、地域の特徴を活かした再開発事業を推進するとともに、マンチェスター同様、大規模商業核の都心への再配置、歩行者道路の確保、公共交通機関の整備を進めた。
(Bull Ring and Markets地区の老朽化したS.C.を取り壊し、周辺の用地と併せて11万㎡の大規模S.C.として2003年に再会したブルリンクS.C.)
(City Centre地区の中央駅とブルリングを結ぶ専門店街は、歩行者専用道路として整備された)
(1970年代に一旦廃止された市電は、再び郊外と都心を結ぶ公共交通機関として評価され、再敷設工事が進められている)
(Greater Convention Centre地区の再開発事業を代表する、コンベンションセンターICCとシンフォニーホールの複合建築物)
(Greater Convention Centre地区の西側には、産業革命以来バーミンガムの物流を支えたバーミンガム運河が残っており、いわゆるウォーターフロントに面した高級アパートや商業施設への転換が進んでいる)
(放棄された工場跡地を利用したDigbeth Millennium地区の教育研究機関Millennium Piont。大学の研究施設のほか、子供向けの科学教育施設などユニークな複合研究・教育施設となっている)
伊東理(2011)によれば、ブルリングS.C.の関連開発のみでも、事業経費は50億ポンドに上る。1ポンド約200円という最近の為替レートを単純に当てはめれば1兆円となり、昨今話題となっている某競技施設のざっと4倍である。これら一連の開発事業は、バーミンガム中心部の商業活動を活性化させた(市当局の試算によれば、再開発前後で中心市街地の商業地の面積は40%増加している)だけでなく、ウォーターフロントを中心に高所得層の流入が増え、税収や消費の好循環をもたらしている。
しかし、巨額の事業経費を投入し、産業と居住者層の転換を図ろうとする政策には、表裏一体となった矛盾や課題も厳然と存在する。リバプールやマンチェスターで触れた都市間競争の激化はその1つである。40%という商業地面積の増加に見合う人口増が無い限り、他の都市との消費争奪は不可避である。バーミンガムの場合は、中心市街地内部での過当競争も進んでいる。東京の2007年問題(規制緩和で高層建築物が増加したことで、需要を上回る面積のオフィスが供給され、オフィス間でのテナント争奪が進んだ問題)と同じ構造である。
(歩行者専用道路New Streetに面した老舗の閉店広告。ブルリングS.C.に移転する旨が示されている)
さらに大きな問題は、低所得層の社会的排除の問題である。たとえば、運河添いやブルリングの後背地など、高級アパートやオフィスへの転換が進む地域は、もともと低所得層の構成比が高い地域であった。こうした地域を急速に開発していくことは、都市空間のGentrification(高質化)の「成功事例」とは言えようが、その結果退去を余儀なくされた低所得層の行き場をどう確保するかが、極めて大きな行政上の宿題となるのである。
(開発が迫るブルリンク後背地の老朽アパート。すでに住民の立ち退きは終了しているらしい)
(オフィス、住宅、飲食店への複合開発が進んだ運河添いのBrindleyplace。1990年代初頭までは倉庫や労働者用住宅が残っていた)
(市の北西部にあたるJewelllery地区の再開発現場。やはり低所得層の都心居住を支えてきた古いアパートの取り壊しが進んでいる)
(同じくJewelllery地区から望見した中心(南東)方向。高層化が進む中心部、低~中層住宅地の高質化が進む周縁部、そして再開発に向けて買収と更地化が進むその外側という同心円構造が、比較的分かりやすく把握できる)
Viaggio nell' Inghilterra ① Liverpool e Manchester (イギリスへの旅 ① リバプールとマンチェスター)
中心市街地の再開発を考える上で、イギリスの事例は避けて通れない。第二次世界大戦後の戦災復興、その後70年代までの保護主義的政策、サッチャー政権による80年代の劇的な規制緩和による郊外出店の波と中心市街地の地盤沈下と続き、90年代のメージャー政権以降は、都市計画と福祉政策を両輪とする計画的な都心の商業核づくりが今日まで継続している。80年代までは日本の商業政策を10年先取りしているとも言えるが、90年代以降の舵の切り方では大きく異なる部分も多い。いずれにせよ、秋からのベネチアの講義でも、イギリスの事例は1つの典型例として紹介する予定なので、この機会に代表的な都市を廻ることにする。今回の旅に際しては、伊東理先生の大著『イギリスの小売商業政策・開発・都市』を熟読した。事実上、伊東先生のご研究を実地で追体験する旅といっても差し支えない。
行先は、リバプール、マンチェスター、バーミンガム、ニューカッスル、そしてロンドン。ナポリ~リバプール間にEasyjetの路線があり、これでイギリス入り。イギリスは(相互の国境を査証チェックなしで通す)シェンゲン条約に加盟していない。島国という地理的条件がもたらす「国境管理」の妙味を有効に利用するという事であろう。したがって、ナポリからイギリス諸都市への直行便を利用する場合、それぞれの都市で出国審査、入国審査が必要となる。今回、初めてナポリの出国印がパスポートに押印された。妖怪「はんこ爺」のようになってきたが、なかなか出入国印が増えないヨーロッパにいて、この前のクロアチア以来、スタンプのインフレが続いている。
(ナポリ空港での搭乗風景。実は乗客のほとんどはイギリス人であった。ロンドン便とは異なり、イタリア人がリバプールへ行く用は少ないのだろう。機内アナウンスも英語のみ)
(リバプールはビートルズの故郷。空港名にはJhon Lennonの名前が冠され、空港前の広場ではyellow submarineがお出迎え)
さて、リバプールとマンチェスターは、世界初の営業鉄道で結ばれた都市として有名であるが、90年代以降のまちづくり政策でも、いくつかの共通項で結ばれている。1)中心市街地の集客力を回復するため大型商業施設を中心市街地に誘致する、2)大型商業施設の周囲に歩行者専用道路(昼間のみの規制も含め)を設け、回遊動線を確保する、3)自家用車依存ではなく、公共交通機関による郊外~都心間の移動手段を確保する、などがそれである。
(ビートルズゆかりのCavernclub(オリジナルは閉店している。現在の店は近所に後からつくられたもの)周辺。駅から港へ抜ける歩行者動線の中に組み込まれており、写真の左端に可動式の車止めが見える)
(左は、リバプール中心市街地の核と期待され、2008年に竣工した大規模ショッピングセンターLiverpool One。売場面積は15万㎡を超える。右は、Liverpool Oneから中央駅に向かう歩行者専用通路)
マンチェスター中心市街地は、リバプール以上に「都市再生」の象徴的存在とされている。マンチェスターは、80年代に急増した郊外型大型店に商圏を浸食されただけでなく、1996年にはIRAによるショッピングセンターの爆破事件を経験したためである。市電(Metrolink)による公共交通ネットワークの整備、爆破の後に改装・再開された大規模ショッピングセンター「Arndale Centre」を核とする歩行者専用道路の拡大など、大規模な公共投資が中心市街地に投入されている。
(マンチェスターを南北に結ぶMetrolinkは1992年に部分開業し、現在も路線網が拡張されている)
(改装されたArndale Centreも10万㎡を超える)
(Arndale Centreの周囲には、百貨店などの大型店が集積し、これらを結ぶ歩行者専用道路が賑わいを見せる)
リバプールとマンチェスターの事例が示唆する通り、90年代以降のイギリスの「都市再生」の主流は、大規模商業核の都心誘致と、公共交通依存型まちづくり、そしてこれと表裏一体になった歩行者動線の確保である。ただし、こうした政策は相当な財政出動をともなう。クリスタラーの中心地論を引き合いに出すまでもなく、こうした政策が実施可能な都市は相応の階次の都市に限定される(イギリスではcore cityと呼ばれる)。また、行政(実際は第三セクター)による支援があるとは言え、高コストな都心の再開発物件に出店するための家賃は安いとは言えない。当然、それを支払ってなお利益が見込める業種やチェーン店に出店対象が偏ることは否めない。そして何よりも、「郊外に対抗できる都心を再構築する」という政策は、店舗の過剰集積を招き、都市間競争を過熱させかねない。リバプールとマンチェスターは、最速の特急なら30分そこそこの時間距離である。この2都市が、それぞれ10万㎡を超える商業核を都心に整備し、集客を競うという構図は、周辺の中小都市への影響を含め、やや競争過剰の感が否めない。そうでなくても、両者の核店舗に並ぶテナントは、地代負担力による選別やテナントミックス戦略の結果、全国チェーンを中心とする似たり寄ったりの顔ぶれなのである。
Sant' Agata de' Goti (サンタ・ガータ・ディ・ゴーティ再訪)
サンタ・ガータ・ディ・ゴーティは、このブログの表紙の写真の街。ナポリも残りわずかになった昨今、比較的近いので10年ぶりに再訪することにしました。ちなみに表紙の写真は10年前の撮影です。
最短経路は、ナポリから王宮で有名なカセルタまで鉄道で小一時間。ここからバスで50分。ただし、このバスが曲者で、1日2便!しかも、サンタ・ガータからの帰路便は13時20分が最終便となる。このため、ナポリから日帰りを試みる場合、10時20分カセルタ発(11時10分サンタ・ガータ着)、13時20分サンタ・ガータ発という経路しか選択の余地が無い。まあ、レンタカーを使えばナポリから片道1時間半の距離なんですけどね。
(カセルタ駅前で待機する10時20分のバス。バス会社はサンタ・ガータに本社があるローカルバス会社で、サンタ・ガータから出てサンタ・ガータへ戻る「往復ダイヤ」を1日2回運行しているらしい。午前便の復路と午後便の往路を利用することになるため、どうしても現地滞在時間は限られる)
(途中で、あのカセルタ王宮の水路に水を供給しているVanvitelliの水道橋をくぐる)
サンタ・ガータ・ディ・ゴーティは、直訳すれば「ゴートの聖アガタ」となる。一風変わった地名だが、その歴史は曲折がある。もともとこの地域は、歴代のローマ皇帝(とりわけアウグストゥス)に愛されたナポリの後背地にあたり、アッピア街道も近くを通過しているため、ローマ帝国の直轄領だった。ところが、(西)ローマ帝国の弱体化とともに、6世紀頃にはゴート人が支配する地域となった。
ただし、de' Gotiの名はゴート人に由来するものではなく、13世紀にこの地の領主であったフランス人貴族De Gothから来ていると言うのだから話はややこしい。この支配者は、1268年にフランス・アンジュー家のシャルル・ダンジューがカルロⅠ世としてシチリア王に封じられ、ナポリに拠点を構えた(ナポリのアンジュー朝)ことと関係している。14世紀に入ると、サンタ・ガータは「アビニョン捕囚」で有名な法王クレメンス5世の封土に組み込まれるが、このことも、当時のアビニョンがナポリのアンジュー家の領地であったことと無縁ではなかろう。
現在のサンタ・ガータは、ベネヴェント県に属する人口1万人余りの小さなコムーネであり、火災等もあって中世の建築物や文化財はほとんど残されていない。しかし周辺地域には、カンパーニャ州内陸部を代表するブドウ種であるFalanghinaやGrecoのブドウ畑が広がっており、かの作曲家ヴェルディもこの近郊に農場を所有していた時期がある。
(サンタ・ガータの「目抜き通り」となるvia Roma. 綺麗な石畳の上を、中学生くらいの団体が闊歩していたが、社会科見学かな?)
(サンタ・ガータは山上都市であり、都市内の井戸水は貴重品であった。このため、古代~中世にかけて、洗濯は城壁の下にある二本の河川添いにしつらえられた「洗濯場」へ出かける必要があった)
サンタ・ガータ再訪のもう1つの目的は、地元のワイナリー、Mustilli(ムスティリ)を訪問すること。10年前にマリア先生らと訪問し、醸造所を見学した際に購入したファランギーナが絶品だった。しかし、今回は季節外れということで醸造所は閉まっており、アグリツーリズモ利用者だけが見学できる由。残念。
(アグリツーリズモの看板がかかるムスティリの正面玄関。宿泊すると、ブドウ畑や醸造所が見学できるらしい)
(で、別口を探し、自家製ワインの小売りをしているエノテカ(酒屋)を見つける。その名もOPERA。店番をしていた若旦那(父親が現在の社長の由)に、ヴェルディと関係あるの?と聞いたら、そうではなく、先々代(創始者?)の趣味だったらしい)
(タンクに入っているワインは量り売りしてくれる。ファランギーナ種で、1リットルなんと1.5ユーロ。空のワインボトルを持参すると、760ml詰めて栓をしてくれる。試飲させてと若旦那にお願いし、ファランギーナをコップ酒で一杯。これで50セント。ご馳走様でした)
サンタ・ガータは、建物が河谷から城壁状にせり上がっている西側が美しい。下の写真は、太陽が少しでも西に傾くのを待って13時過ぎに西側から撮影。
(10年後も変わらない景観でした)
I mercati ambulante a Napoli (ナポリの移動市場)
ダルマチアから戻り、ナポリ東洋大学でミーティング。今回は、(待望の)A先生も出席され、2時間近く、ナポリの都市政策、商業立地、郊外大型店の影響、都心の商業空洞化と低所得者対策について意見交換を行う。「それでもまだ、ナポリの都心の商業は元気だよね。イギリスとか、サッチャー時代の規制緩和で都心の商業が地盤沈下し、メージャー以降のてこ入れで都心の大規模再開発を続けたのは良いけれど、地代負担力が高い業種しか生き残れない、都心の低所得者が追い立てられている、都市間の顧客争奪競争が激化している、で大変だもんね」というのが共通見解。
議論の終わりの方で、カターニアでも話題になった移動商店(その集積としての移動市場)の話題になる。地代負担力が低い零細店舗でも都心に出店可能なシステムとしての移動市場は、イタリア(少なくとも南イタリア)の都市商業を考える上で外すことが出来ない、という話題になった際、「ご近所」の学部長先生が、「ナポリにもでかいのがあるよ」と教えてくれた。「行ったことがありますよ」と答えると、どうやらそれは本所から枝分かれした「支所」らしい。「君の家から徒歩15分!(彼は私の家を知っている)」と地図を書いて下さったので、翌日見学に行く。市場の名前はAntignano Pubblico Mercato。カターニア同様、朝8時から午後1時までの移動商店街である。
場所は、いわゆる高級住宅地Vomeloの中腹。私のアパートからは、ちょうど丘を120度ほどぐるりと「まいた」位置にあった。もともと、新興住宅地の商業核として戦後すぐに公設市場(Mercato Rionale : 直訳は地域市場)が行政によって整備され、その門前に自然発生的に生まれた移動店舗の集積が、市場に発展したらしい。最後にやってきたのがスーパーのカルフールというのが面白い。でも、雑貨屋や八百屋は、価格競争でも品質競争でもカルフールに負けていない。
(老若男女が顧客となる移動市場。カターニアと同じくテント方式の出店で、時間になると20分程度で鮮やかに撤収していく)
(母体は戦後すぐに生まれた公設市場。今も元気で、八百屋などはこの公設市場の店が、13時までは外の移動市場にテント店舗を出している)
(公設市場にある酒屋さん。提携農家から仕入れているハウスワイン。この値段とは思えないくらいキレがあって美味しい!)
(左のカルフールは、移動市場の「賑わい」に惹かれて2000年代に参入したという)
さて、ナポリ生活もあとわずか。ヴェネチアへ送る荷物と日本へ送る荷物をより分ける作業も佳境です。